「つながる沖縄近現代史」沖縄の産業はいかに発展したのかの章

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今年もあと1時間だが沖縄についての同書を読み進める。

第3章は「黒糖と沖縄近代」と題し、戦前までの沖縄の産業の展開が簡単に紹介sれている。

南西諸島がいかにして糖業のモノカルチャーに陥ったのかの経過と、その結果として主食の芋の作付け面積が減り、糖業が失速した時に経済危機どころか飢饉にまで陥る過程がまとめられている。

 

沖縄の近現代は特定の産業(製糖業→基地建設→観光業)に依存したことによる構造的貧困に苦しめられてきた。しかもそれは日本の都合により引き起こされた人為的な貧困と言っても過言ではない。

 

製糖業は琉球王国が薩摩支配を受けていた間に、薩摩の専売品として琉球地域に導入された。島民の個人売買を禁止し、多くの債務奴隷(ヤンチュ)を生み出した。薩摩倒幕運動の資金は黒糖によって生み出された。

 

明治時代になると日本が砂糖を輸入に頼っていたことから、沖縄の生産の重要度は増したが、沖縄の製糖業は3つの問題があった。

問題の1つは製糖業界の構造にある。流通を握る者に大きな利益をもたらし、生産の現場は搾取されるという問題。債務奴隷の発生はこの問題が大きかったとされている。

明治維新後最初の県令に任命された鍋島直彬(なおよし)はこの構造の改善を図ろうと、商人(流通業者)による買い上げではなく県による買い上げとし、商人への債務の解消を図ったが、これは製糖業に利権を持っていた旧琉球王国の支族階級が反発し県令が更迭される事態になってしまった。

問題のもう1つは小規模手工業による事業者が大半を占め、生産効率が悪かったこと。農工が未分離の状態で生産を続けたことがのちに致命傷となる。

その原因を最初に作ったのはまたしても日本だった。日本は日清戦争後に獲得した台湾での産業として大規模な製糖を始めた。沖縄での黒糖生産を図った日本政府が突然製糖政策を転換して台湾に大規模な投資を行ったことにより、零細事業者の多かった沖縄の業界は大打撃を受ける。

その後も第一次対戦後の砂糖バブル崩壊、1930年代の米国恐慌における農産物価格の暴落の時代にも打撃を受け続けた。糖業育成のために主食の芋の作付面積が大幅に減少したことから食糧危機を招き、30年代にはソテツを煮て食べざるを得なくなった。「ソテツ地獄」と呼ばれている。

沖縄自身の努力は沖縄出身の知識人を中心にさまざまな対策がとられた。零細事業者の多い産業構造の改善は大資本育っていない沖縄ではうまく進まなかったが、台湾の品種である大茎種や化学肥料、蒸気やガス動力を導入し近代化が図られたが、モノカルチャー構造がもたらす貧困は根本的に解決しなかった。

糖業依存の脱却や県外からの移入超過構造の解消などの努力もなされた。狭隘な土地での生産力に限界があることから、この頃盛んに県外、海外への移民が奨励された。

 

以上のように、沖縄は薩摩支配以降は薩摩、日本の産業政策に翻弄されてきた。流通を握られて搾取される姿はまるで欧米の植民地とされたアジアや南米各国のようである。

 

同章のコラムには当時の産業を知るための用語が紹介されている。

「通耕」耕作可能な島に通って耕作すること

人頭税琉球地域への課税の方法。6割を織物、4割を穀物で納入させられた。宮古は粟だったが、八重山は米だった。江戸期に織物は大坂で高値で取引されたため、飢饉時にも停滞が許されなかった。1902年になりようやく人頭税が廃止される。