新しい下諏訪町の歴史

 下諏訪町の歴史について語る方の多くは「諏訪大社」「宿場町」「温泉」であるとする方が多い。

 しかし、実際にはどうなのだろう、と時々思う。私たち多くの町民にとって「宿場の下諏訪町」はあまり現実感がなく、町の一部のことにすぎないのではないか。

 私たちの地域に根づくこの町の歴史を振り返ってみることで、この町のまちづくりの行くべき方向を考えるヒントにならないかといつも思っている。都市計画やまちづくりのあり方は、その地域に根付いたものを根拠に行うべきだと私は考えている。唐突にありもしないものを資本や税金で建設することはできても、一般的には社会に根付くことはなく、仮に受け入れられたとしても一過性のもので終わってしまう。そして社会に根付いていないものは今後観光資源にもならない。消費者の目は肥えている。本物以外には見向きもされない時代が来ている。

 

 この町を俯瞰して見た時、「諏訪大社」への信仰は幅広い層に根付いているように思う。地域の活動に参加しない方も初詣に大社に出かけたことのない人は少ないのではないか。温泉も利用したことのある方が多いのではないか。

 しかし「宿場町」はどうなのだろう。下諏訪町の始まりは下諏訪宿であると言う考えが根本にあるのかもしれないが、それは本当に真実なのだろうか。そもそもほとんどの町民は宿場町とは関係なくこの町で暮らしてきた。ほとんどの人々は大正期に立地した製糸業や戦後の精密工業の時代にこの町に移り住み、工員や製造業の関連産業に従事して生計を立ててきた。この町の歴史とは、製造業の歴史である。

 下諏訪町誌下巻の経済の章に、壬申戸籍簿からの引用で産業構成の表がある。明治5年、下諏訪の戸数は930戸、商業は92戸、わずかに10%に過ぎない。他の地域よりは少ないが、648戸が農業者とされている。この水利の良い農業地に後に製糸業が立地することになる。

 製糸業隆盛期の終わり頃である昭和15年には、総世帯数3651戸、人口17619人の記録がある。宿場時代からの飛躍的な量的拡大は製造業がもたらした。下諏訪町がすでに宿場とは全く別の姿をしていることが窺える。

 

ここで下諏訪町における製造業の展開を振り返っておきたい。

下諏訪町は製造業の集積地である。現在では正確には「集積地であった」と過去形で表現せざるを得ないかもしれないが、今でも長野県内の他の地域に比べると農業比率が著しく低いことは、この町で製造業が果たしている役割の大きさを思い起こさざるを得ない。

特に戦後、製糸業で蓄積した生産要素を精密に転換できたことが大きかった。転換には他市からの工場の進出が大きかった。その進出を招いた最大の要因は製糸業などに従事していた工場労働者である。この町は工場労働者の町であると言って良いだろう。

 

製糸業の始まりは宿場資本からであった。下諏訪の製糸業の揺籃期は宿場の機能を失った人々が蓄積された資本により転業したのが始まりである。その意味で、下諏訪町の始まりを「宿場町」とする考えには一理ある。しかし、日露戦役後に岡谷で大資本化した製糸業者が下諏訪町内に工場を建設するようになってからは、この時期までに育っていた下諏訪町の中小業者の多くは競争に落伍してしまった。その後の製糸業を支える多くの事業者はこの時代に資産家たちが起業したものである。

 

製糸業がピークを迎えるのは大正の初めから昭和の初めまでの時代である。岡谷市から進出した大工場と中小工場が乱立する構造は、戦後の精密工業界の状況に似ている。この町は少数の大企業と零細企業の町であった。この町の線路より北側の地域の道路が狭く、家屋が軒を接するような構造になっているのは、この時代に形成された街並みだからである。宿場町だった地域より離れた農地などに工場が立地し、その周辺には工員の寮などが建設された。

 

日本の製糸業界は糸価の乱高下に翻弄された。下諏訪町の製糸事業者も同様だった。

大正3年、第一次世界大戦により糸価が一時低迷したが、生糸の買い上げによって製糸業は維持された。その後米国の大戦景気により需要は急速に拡大し、諏訪地方の事業者は県外に工場を出すまでに至った。

ところが大正9年に至り糸価が暴落、昭和2年には金融恐慌が起き、昭和4年のブラックマンデー以後には糸価が半値にまでなってしまった。

目まぐるしく動く市況に翻弄された下諏訪町の製糸業だったが、多くの労働者を必要とするこの産業が周辺の農村地域からの人口流入を招いた。製糸業を支える産業も育ち、戦時中の疎開企業の諏訪地方への立地などもあって、終戦時には繊維業は工業界の30%程度となっていた。数人から数十人規模の零細企業が大半を占めており、自然景況に左右されやすい体質であった。

終戦とドッヂラインの大倒産時代には工場閉鎖と大量解雇が相次いだ。当時の苦難は言葉で表せないものがあるが、結果から見れば工業界の代謝を促進することとなった。下諏訪町の製造業者は、諏訪地方の他の地域と同じく軽工業からより付加価値の高い精密工業への転換を果たすことに成功した。製糸時代から集まり始めていた豊富な労働力と工場資本が元手となった。特に機械工業の発展はめざましい。町誌には昭和30年を100とした場合の生産額指数が掲載されているが、昭和23年は2.8だったが、昭和37年には1200になっている。

戦後の初期は家内工業的なメリヤス製造が主体で、98%が零細事業者だった。軽工業の斜陽化に町は危機感を持ち、他市町村に先駆けて工場誘致条例を整備して敷地の斡旋と減税を実施、カメラメーカーのヤシカが御田町に工場を建設した。諏訪市で創業していた三協精機下諏訪町に分工場を出したのもこの頃である。先年下諏訪町から転出してしまった小型モーターの荻原製作所も諏訪市から転入した。関連、下請けが急激に成長して精密製造業の集積地が出来上がった。大和電機工業、共立継器のような現在でも下諏訪町の中核をなしている製造業者もこの時期に操業を始めた。

 

以上のように振り返ってみてもなお、この町は「宿場町」と言えるのだろうか。ほとんどの町民は工場で糸を繰ったり工場で油まみれになって、世界経済に翻弄されながら働くことで生計を維持してきた。

私たちの歴史をもう一度率直に見直してみれば、そんなことが見えてくると思う。