下諏訪町のアイデンティティとは

下諏訪町にはさまざまなアイデンティティがあると思う。

古くからの諏訪信仰は今も町の人々の中に生きている。子どもの頃に参拝に行った記憶がある方は多いだろう。

甲州街道甲州道中)が中山道に合流する交通の要衝であった。そのように学校で習った方も多いだろう。

けれどもこの町にはもう一つ重要な歴史がある。

製糸業の時代に大勢の人々が県内外から流入し、その人々が集住したことで今の「下諏訪町」は形作られたということだ。

観光的には木曽谷のような「宿場」を売りにするのも良いが、当時にその根を持つ町民は一部に過ぎない。多くは、大正から昭和初期に製糸工場とその周辺産業の労働力として移住してきた人々と、戦後の高度経済成長で工場労働者の主力として移住してきた人たちの子孫たちの、いわば移民の街だ。

移民たちがこの地域に根付いたのにはさまざまな背景があるだろう。一つは御柱祭という地域を根こそぎ動員する大きな祭りで役割を持つことによって私たちは1つの街を作ってきたという側面がある。また、工場労働者としての職場での教育は、地域の人々の行動に影響を与えているようにも思う。

これらの歴史の重層性が木曽谷の宿場町との大きな違いであると私は思う。

 

木曽谷の町村の成り立ちを見ると、宿場以降は林業という第一次産業が社会を作ってきたと言って良いと思う。

多様な地域の人々が集まり、それを組織化して生産活動を行なってきた下諏訪町の人々とは、やはり違ったところを持っている。林業よりもより労働集約的な産業で人口が増え、温泉を資源として銭湯がつくられた。いくつかは無くなってしまったが、それでもこれだけの数の銭湯が維持されているのは、この町の構造が大きく変わっていないからではないか。

経営者層と労働者層、そしてその労働者にサービスを提供する職種といった社会階層は今も町民の所得階層にその名残を残している。この町で階層移動をしようとすれば、中堅以上の工場に勤務することが第一条件だった。

その経済的構造は基本的には変わっていない。

こうした木曽谷との違いは建物や町の景観、文化にも色濃く残っていると思う。