小松直人さんに会ってきたお話

下諏訪町で「ミスター御柱」といえば、現下諏訪観光案内所長の小松直人さんだ。小松さんは28歳から8回にわたって御柱に奉仕されている。

 

今日、松本大学で教鞭を取られる木下巨一先生(地域文化論)のご依頼により、学生さんのインタビューに同行する機会を得た。

実はご依頼をいただいて「これは役得というやつではないか」ととても楽しみにしていた。小松さんには仕事その他でお世話になってきたが、ご自宅にお伺いしてじっくりお話をお伺いする機会はこれまでなかった。先年の信州自治体学会で講師をお願いしたこともあり、また観光係在籍時に「しもすわまるごと博物館「宝さがし探検隊」」で御柱講座の講師もお願いしたことがある。ただ、今回小松さんに私が一番聞きたかったことを学生さんが直球で聞いてくれた。「伝統の継承のために、御柱のために、小松さんを動かしているものはなんだろう」ということだが、直球に対して正面から誠実に答えてくださった小松さんには本当に感謝の言葉もない。

 

学生さんからの質問は歴史→地域→小松さん個人へと順を追うように進んでいった。

 

最初に御柱の歴史についてのお話もいただいたが、以前伺ったお話と一部重複部分は他の記事に譲る。今回初めてお伺いしたのは、岡谷市長地(おさち)地域のことだ。

下諏訪町の東山田地区が諏訪大社への奉仕において、さまざまな特別な役割を持っていることは聞いていた。私自身が東山田の出身だからということもあるが、町の事業「宝さがし探検隊」でもそのお話をよくお聞きしたからでもある。

木遣りの中に、旧長地村(現在の岡谷市長地と下諏訪町東山田)にしか伝わっていないものがあるという。私は不学なため知らなかった。東山田が下諏訪町に分村合併する際に、東山田を通して下諏訪町に伝わっているという。旧長地村の伝承に詳しい方の多くが他界しておられるのが悔やまれるとのことだった。

 

上社と下社の違いについてもお話しいただいた。

上社には「メドデコ」という角のようなものがついている。かつては1m程度のもので、柔らかい火山灰土の八ヶ岳の斜面を曳行する際に柱が地面に潜ってしまわないよう、揺らしながら引っ張った時の名残だという。今では大きく派手なものがついている。また、御柱を曳行するための綱「男綱(おづな)」と「女綱(めづな)」が逆であることなども違うところである。

運営体制の違いについては以前信州自治体学会で参加者の方々から、上社は若者を中心にして大総代が運営する体制をとっているが、下社は区長町内会長が運営に関わっていることを伺ったことがある。

御柱の曳行については下社は木遣りで柱が動くことにこだわりがあるが、上社はラッパや太鼓のような派手な演出が目立つという。意識はしていなかったが確かに上社の御柱を見にいった時に感じたのは賑やかさだった。衣装もグループごとに設えるなど、見た目も全く違っている。

小松さんからは御柱のラッパについて伺った。だいぶ以前、郷土史家で今は亡くなられた蟹江文吉さんから日露戦争の後からラッパが吹奏されるようになったと経緯を聞いたことがあるが、木遣り師の小松さんからは少し違ったお話をお聞きできた。日露戦争で諏訪地方も多くの若者を失い、直後の御柱で元気を失った人たちのためにラッパが吹奏され、みんなで引っ張ることができた、という。だいぶ以前い放送大学「コミュニティ論」のテキストに著名な社会学者の倉沢進先生がラッパ吹鳴のことを時代が遡ったような印象を受けたようなことを書かれていたと記憶しているが、小松さんのお話をお聞きすると地域の人々が御柱と共にあの戦争をどうやって乗り越えたのか、少しだけわかるような気がした。

 

担い手について危惧されていることも率直にお話しいただいた。

諏訪で生まれれば「氏子」となって御柱に参加することができるはずだが、昔は若い人は簡単に役をやらせてもらえなかった。今では地域に貢献した人が優先的に御柱の役を担うようになった。雑踏警備の中心である消防団は参加できなかったが、今では優先的に参加できるように配慮しているところも多い。昭和23年から女性も参加するようになった。今後、元綱やてこ衆にも女性がなる日が来るのではないか。女性はかつては接待で忙しいばかりだった(萩倉地域のご高齢の女性のヒアリングをした時に、20代はじめに嫁に来て前回初めて御柱を見たという方がいた)。あと1回から2回はなんとかなると思うが、団塊の世代が去り少子化も進めば、技術の継承はどうなるのだろう、とのこと。

 

私が個人的に最も印象に残ったのは、「小松さんにとって御柱とは」という質問への答えだった。「俺から御柱を取ったらただの人」とおっしゃった。

下社の御柱は木遣りに大勢の人が応えることで動く。「声で気持ちが通じる」ともいうまた、声で神様をお呼びし、神様を山へお返しする、いわば神官の祝詞と同じ重要な役割がある。その意味で木遣師は「神に近い」存在だと思って木遣を歌っているという。声が大きいだけでなく、いい声でなければならない。何回も失敗をして恥ずかしい思いをしたという。「これまで「うまくいった」というのはない」とお考えとのこと。

 

私には小松さんの木遣りに相当するほどのものはないが、ボランティアで教えている日本語も、中国語での通訳も、時々担当するイベントも、どれひとつとしてうまくいった気がせずにいる。

 

小松さんですらそうなのかと思えば、私などまだまだなのだろう。

 

最後に、小松さんの「自分の声で伝統文化を伝える」「喜んでもらう」という言葉が、とても胸に刺さった。

常日頃思うが、現場の人の思いの詰まった言葉は本当に重い。

私にもこんなことを語れる日がいつか来るのだろうか。