下諏訪みらい塾第1回 講座

住民企画による「下諏訪みらい塾」講座の第1回に出席した。

内容及び感想は下記の通り。なお、私も企画に参加している。

 

日時 2021年12月26日(日)15:00から

講師 小倉美恵子(「諏訪式」著者) 

演題 「諏訪式。」〜来たり人の目を、心を開く

 

講師について

神奈川県川崎市宮前区出身。近現代の諏訪地方に現れた人々を聞き書き、記録などを頼りに取材した同書を出版した。下諏訪町の地域の課題を扱う本講座の第1回目の講師にお願いした。

 

講演内容まとめ

1 「諏訪式」著書について

新作映画製作がきっかけで2011年に諏訪に初めてきた。同著は高度経済成長でウヤムヤにしてきた、川崎で感じた「ふるさと難民」への答えのようなものになった。

 

2 故郷の川崎について

現在の川崎市宮前区にかつてあった「百姓」の家で生まれた。近年は「百姓」という言葉に悪いイメージがつきまとっているが、「生活に必要なものは自分で整える」という意味であえて使うことにしている。下諏訪町本社の三協精機(現「日本電産サンキョー」)の創業者山田正彦も百姓であることが基本、という「ものごとを考える原点」という意味の言葉を残している。

 高度経済成長前、地域社会が残っていた。谷戸(やと)と呼ばれる地形に囲まれた、多摩丘陵の一部に家があった。経済成長期には東京に隣接していることから急速に都市化の波に飲み込まれ、新住民が押し寄せた。新住民の目には旧住民の暮らしは入らず、新旧住民の交流すらないままに地域社会は失われた。

 川崎の若い人と話をしていると「ふるさとはどこか」と聞かれて答えられない、という人がいる。地方大へ進学し移住して行った人もいた。

 

3 諏訪地方について

取材の中で、江戸時代に出稼ぎが奨励され東京の大森の海苔問屋に大勢の諏訪の人々が奉公に出ていた話を聞いた。今も諏訪の人々の姓がついた海苔問屋が残っている。奉公に出た人々を繋いでいたのは諏訪明神への信仰だった。

 諏訪地方も多くの新しい人々を受け入れてきたが、川崎のように地域社会がなくなることはなく、取り入れることで力としてきた。諏訪地方の取材で地域を軸足にしている人々の姿に出会った。富岡に官営製糸ができた時、あらゆるものを輸入した。典型的な落下傘型の産業だった。諏訪地方に製糸業が起きた時、地元の材料を使って製糸機械を独自に作り全国に広まった。戦後、精密機械産業へ展開したときも外来の人々が持つ技術力を取り入れた結果だ。精工舎疎開企業であった。あるもの、ないものの融合が起きた過程で、「あるもの」に重心を置くことで主体性を保ったのだろうか。島木赤彦、岩波茂雄などの目利きは、風土に寄り添う観察眼がベースにあったように思う。

 

4 講師講演の中でのキーワード(解説を付記する)

「昔に戻りたいわけではない。このまま進みたくもない」

「新しい住民と古い住民」

 川崎は新しい住民に地域が一気に占領されてしまった。諏訪地方は新しい人々の力を取り入れているように思える。

「ふるさと難民」

 川崎で「ふるさとがどこかわからない」「川崎をふるさとと思えない」と言った若者の言葉から。

「(その土地、風土に)軸足のある人」

 「ふるさと難民」とは異なり、地域の風土や文化に軸足を置く生き方のこと。

 (旧制諏訪中学三澤勝衛教諭の言葉などを引用)

「小さな粒々のようなもの」

独立し事業を営む、模倣でなく自立した個の存在のような意味か。

 

 

以上。

 

 

以下は、私の感想。

中山道甲州街道が出会う大社といで湯の宿場町」が現在のキャッチフレーズである。前青木町長の時代に作られて、まちづくりの方針のようにされている。

街道がもたらす新しいものに大社が代表する伝統が出会うことで、この町の風土が出来上がってきたのだと思う。高度経済成長期にも新しいものにそっくり置き換わるのではなく、取り入れることでこの町は発展してきた、というのはその通りなのだろう。それがこの町の原動力であった。そして現在、住民も行政もこのストーリーに沿ったまちづくりを行なっている。

 

しかし、この「ストーリー」に実は私は強い違和感を持っている。

 

下諏訪町近現代史を振り返ってみると、昭和初期と高度成長後期に人口膨張を経験している。その時に流入した「新しい人々」もこのストーリーを共有できるのだろうか、と考えざるを得ない。町のキャッチフレーズは、古くからいる住民とそのコミュニティに順応した新住民だけの物語ではないのか。

例えば私も父も下諏訪町の生まれだが、昭和初期にこの町に来た新住民の子孫だ。この時期に来た人々は、県内外の山村から職を求めてきた人がほとんどだった。この町に古くから住み、有形無形の資本を培ってきた人々が彼らを使役することで利益をあげた。誤解を恐れずに言えば、わたし達水澤家の人々は下諏訪町の下層階級に組み込まれることで生きながらえてきた。

税務課で仕事をしていると住民所得を多くみる。誰かデータ化してほしいと思うのだが、やはり地域に有形無形の資本を持つ人々と、私たち昭和期以降の移住層の間には経済格差がある。無論階層移動に成功した人々もいる。培った資本を失い、危機に陥っている人もいる。あくまで「傾向として」の話だ。

これらの階層がなぜ鋭く対立しなかったのだろうと考えると、一つには製糸業から精密へ順調とは言えないまでも拡大してきた経済の恩恵を受けることができたからだ。もう一つは「御柱祭」だと思う。地域を根こそぎ動員せざるを得ないこの巨大な祭は、地域社会のさまざまな担い手に新住民の中からも選抜する役割を持っている。地区や地区分館の役員の入れ替わりを見ているとそれはよくわかる。

これまで下諏訪町には4回危機があった。1回目は明治維新で宿場の廃止による物流拠点の役目を奪われた時。2回目は昭和の製糸不況。3回目は戦争。そして今、4回目のバブルからの衰退の時代だ。1回目から3回目まで、旧住民と新住民は拡大する経済の中で同じ夢を見ることができていたようにも思う。しかし、これから長期低迷していく中でも同様だろうか。私にはそうは思えない。

そもそも「新しく入ってきた住民や企業を取り込むことによって発展してきた」というストーリーは真実なのだろうか。町のキャッチフレーズはこの物語を補強し、町民を統合するための機能を持っているが、この物語に安易に回収されてしまって良いのだろうか。

それは下諏訪町の半数を占める、この町の「まちづくり」に入って行けずにいる多くの元新住民を置き去りにすることにならないか。

新住民と旧住民の新たな対話が必要だと思う。

彼らを融合する新しい事業が必要だと私は考えている。

 

この講座の目的を「魅力を生かすこと」と冒頭で説明があったが、「魅力を生かすこと」はあくまで問題解決の手段でしかない。

私はこの講座で諸問題の深層にどこまで踏み込めるだろうか。