日本語教育研修@長野県 第一回メモ

20260630

本日のテーマは学習者の背景を知る。

 

最初にグループワークで今どんな情報を持っているかをシェアした。

ビザの関係で厳しい状況になっていることが二人の受講者から聞かれた。

 

始めに人口動向の確認があった。

 出生が2019年89万、2025年は69万(総務省統計ベース、厚労省は違う数字を持っている)概ね200万増で推移していたが、80年代に減少し始めた。

1970年 120万人

2000年  23万人

2010年 13万人

2020年 マイナス53万人

 

人が増えてものが増える経済成長の仕組みを手放すという考えもある。

しかし、多くの国民はその考えを支持しないだろう。

 

外国人労働者数

100万人から200万人になるのに15年、300万から400万には3年しかかかっていない。昨年度外国籍人口は400万人を超えた。

政府は積極的に外国人を受け入れているとは言わない。政治家の人気を失うことを恐れる感情が反映している。外国人のネガティブなところを強調して人気をとっている。

 

永住者

特定技能2号は永住者と変わらない。2025年で7955人。2026年は五桁か六桁になるか。

子供を呼び寄せることが当たり前の時代が来ている。

事例:新宿区 はたちのつどい 対象4286人、外国人2114人 日本語学校が多いことで特にこうした状況になっているが、全国的にも外国籍の方がいることが日常の風景になっている。

 

文京区にある小学校 3S1Kに中国人が殺到。東京大学に入れるというデマが流れている。文京区は外国人支援をあまりやっていないため大変なことなっているが、そのことを公に認めていない。

 

文京区の日本語指導が必要なこども

2022年  10人

2023年  82人

2024年 167人

 

日本はすでに移民社会だが、政府がそのことを公式に言わない。しかし、認識はしておりどう対応するか検討しているが、予算は微々たるもの。国としては20億しかない。ドイツは日本円で1000億円、総人口は日本の3分の2。

 

日本語学習者数(文科省調査)

在留外国人の6%から9%しかやっていない

機関向け調査のため独学や調査対象機関に入っていないところはカウントされていないが、それでも相当少ない。

 

出入国在留管理庁「在留外国人に対する基礎調査」

設問「日本語を学んだことはありますか?」

サンプリング調査で87%程度は勉強している、過去勉強していたという結果が出た。

外国籍住民は現在413万人いることからそのうち13%、55万人が勉強したことがない計算になる。住んでいるだけでは話せるようにならない。同国人コミュニティでなんとかなっているケースもある。

 

外国人受け入れの法改正

1988 第6次雇用対策基本計画

1989 日系人、技能実習生の受け入れ 労働者の受け入れではないという建前

日系人であることが証明できればよかった。ブラジルのインフレがひどかった時代。

2018年 新しい入管法

2019年 日本語教育の推進に関する法律

 

入国管理政策は作られてきたが社会統合政策は手薄だった。

 

2022年外国人材の受け入れ、共生に関する関係閣僚会議

様々な背景を持つ外国人との共生が重要とされた。

 

日本語教育の推進に関する法律

日本語教育を共生社会のために行うという目的を明確化させた。法令根拠ができたことで、自治体が日本語教育を始めた。行政の仕事は法律にあることをする。法律にないことはできない。

この法の意義は実施主体を明確化させた。国、自治体、事業者。事業者の責任をもっと重くしようとしている。しかし日本語教育をしたら共生社会になるのだろうか。自然と実現すると政府は思っている様子があるが、現実はそんな単純なものではない。

 

事例1 在住22年、母国に家族を置いている。インド料理店の料理人

日本語が全くできない。店の中ではヒンディー語。休みはインド系ムスリムの仲間と過ごしている

日本食を一度も食べたことがない。

 

事例2 公営住宅でのヒアリング

最初は町内会に入っていたが、外国人が増えたらかえって参加しなくなってしまった。

同国人コミュニティの中でなんとかなってしまうことが背景にある。こうなると本当に日本語を学ぶ必要があるだろうか。経済的にも困っていない。コミュニティの中で暮らせている。

 

事例4 惣菜加工の方

食品を扱う、例えばスーパーの裏方などで働く方は多い。

この方は大学院卒業、日本語はかなりできる。旅行会社に就職した。2年で辞めて惣菜加工に転職。しかし、もし日本語ができなければどうなるだろうか。外国人に慣れている上司なら、指示を伝えることができる。チームに日本語もできる人を入れて、チームの中は母語でこなせばなんとかなる仕事も多い。実際、仕事によっては一般的になっている。

(行政は困る)

 

アンゲラメルケル「多文化主義は完全に失敗した」

ドイツでは移民に反対する人たちが抵抗を激しくしている。

ドイツにやってきた移民はいつか帰ると想定していたが、実際は帰らなかった。企業が経験を積んだ就労者を離したくないため滞在が長期化した。帰る前提だったのでドイツ語教育を怠った。社会に溶け込めないから学校中退率がドイツ人の2倍に。失業率も高い。メルケルはこの状況を「失敗」と表現した。ドイツ社会は多文化を「尊重」した「放置」するのではなく統合のための教育が必要と考えた。

 

海外で暮らす際に現地語できなくてもなんとかなる部分はある。

普段の生活の中で付き合ったことがない人は4割。

 

日本語ができることが自信につながる。

 

浜松市 充実した日本語教室プログラムを持つが、受講者から「日本語を学んでも話す場がない」。そこで交流会を開催したところ外国人と接点のない方が交流会に話したところ「同じ人間だと分かった」と話した。私たちが当たり前と思っていることが当たり前ではない一般の人々。

先生じゃない人に来てもらうことが重要だった。

 

福岡県某町

企業と行政の協議会を開催。日本語教育コーディネーターに企業への参加の呼びかけをした。企業側の反応が薄かった。教師確保のために教師のみ遠隔で実施している。

企業の反応:職場のコミュニケーションが良くなった。

役場職員の意識が変わった。どのくらいのことを理解してもらえるかわかる。

 

誤解がなぜ起きるかも分かった。例えば引っ越してきた人が挨拶に来ると思っている日本人。引っ越してきた人のところに遊びに来る国の人。お互いに悪意はないのに、偏見が育ってしまう。

理解と共生の種を育てたい。

 

オンラインの日本語教育の問題点

オンラインでは接点ができない。日本語が上手くなっても日本人のものの考え方がわからない。周囲の日本人はあの人は日本語ができるのかわからないまま距離を置いている。

これでは共生社会にならない。

 

氷河期世代に何が起きているのか

www.youtube.com

国の成長はいつかは止まる。少なくも踊り場に達し調整が必要になることがある。

 

歴史を振り返ってみれば、後になってみればわかることがあるが、その時は分からなかったということがしばしば見られる。

 

 

日本政府は銀行の貸出基準を極端に厳格化した。

企業は中国とのコストダウン競争のため、人件費を極端に削減した。

結果として子育てや介護を家で負担できなくなった。

 

人口減少の時代が見えてきたのに、企業は給与待遇を変えなかった。

人手不足が始まって労働市場の状況悪化に引きずられ、ようやく給与待遇を変え始めたが手遅れだった。

 

こうした合成の誤謬を調整する機能を「政治」というが、足元が崩れているのにいまだに問題の本質に気づかない国民。

 

当面は外国人労働者を増やし高齢者雇用を延長して凌ぐしかないが、国民も政府もいまだに抵抗している。

抵抗勢力を排除して改革を進めなければならないが、国民にその気がないのではどうしようもないようだ。

少なくも人手不足なのに仕事を作る経済政策を進めている政府部門は排除すべきだが、それもしようとしない。

見えないものへの共感の話

少し前の月刊ガバナンス3月号の記事についてメモしておく。3月号は311の関連で災害対応関連の記事が多い。

 「眼前にないものへの想像力」と題して地方自治総合研究所の今井照氏による特集記事が出ている。

 原発事故により失われた風景について、何枚かの写真が掲載されている。大野駅前商店街の2007年の多くの人が行きかう写真。2019年(誰も歩いていない)、2021年(東京オリンピックにより金網で仕切られた)、2025年(広い道路に変った)の写真。

 ここにいた人たちはこの風景の形成に関与していない。今井氏はそれを指摘する2011年までの生活日常がなかったものとされている。このもやもや感とどう向き合うべきなのか。戻りたいが戻る場所がすでにない場合、どうすればよいのだろうか。

 原発事故後の富岡町をフィールドとして研究しているグループ(高木・佐藤・金井2021)により「生活圏」「認識圏」「構想圏」という分析軸による研究が行われている。3つの円環が重なり合うのが通常だが、原発事故後はこれに遠心力が働き、ばらばらになっているという。

 個人の生活圏が「避難者」「帰町者」「移住者」「その他」などの複数の立場に分解された。それぞれの立場から認識圏、構想圏が考えられる。

もちろん、今井氏は結論も解決策も示していない。物故者を含む被災当事者の生活日常を中軸に考えていくしかない、としている。

 

 

 記事を読んで全く関係ないことを考えた。

 不登校家族への支援として「今は休めばいい」という声掛けが適当なのか、少し前にTwitter上で議論があった。ただの問題の先送りになっていないかという問題提起に対して、そんなことはわかっている。それができないからできないのではないか、という反論があった。

 お互いに「眼前にないことを想像」しあうような深い議論だったが、多くの人にはこの入り口すら理解されていない。

 災害被害も同じなのだろう。

 

 

AIに依頼して社会保険制度について説明を書いてもらった。

 外国人の友人から生命保険加入の相談があり、まずは社会保険を知った上で不足の部分を生命保険で補うような考え方を説明しようと考えた。説明文を書くのが大変だと思っていたが、ふとcopilotに依頼したら書いてくれるんじゃないかと思って書いてもらったら、あっという間に書いてくれた。

以下はAI作成の文章。人間要らないな、これ。

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日本では、すべての国民が公的な健康保険制度に加入しており、病気やけがの際に医療費の一部が補助される仕組みになっています。また、障害年金の制度も整備されており、万が一障害を負った場合には、一定の条件を満たせば年金が支給されるため、生活の支えとなります。しかし、公的な制度だけでは十分にカバーできない経済的リスクもあるため、多くの人は民間の生命保険に加入し、公的制度を補完する形で自分や家族の安心を確保しています。

English summary: Japan has universal public health insurance that reduces medical costs when you get sick or injured. There is also a public disability pension system that can support your生活 if you meet certain conditions, while private life insurance is often used to cover gaps that public programs do not fully cover.

高額療養費制度

English summary: The High-Cost Medical Expense Benefit limits your out-of-pocket medical payments for one month. If you pay more than the monthly cap (based on your income and age), the excess is reimbursed later or reduced upfront with prior procedures.

概要

高額療養費制度(こうがくりょうようひ せいど)は、1か月(同じ月)に払う医療費が高くなりすぎたときに、自己負担(じこふたん)の上限をこえた分が「あとで戻る」または「最初から上限までの支払いになる」制度です。社会保険(健康保険)や国民健康保険などの公的医療保険に入っている人が利用できます。制度の目的

対象になる費用/ならない費用

  • 対象になりやすいもの保険外の治療(自由診療)
    • 保険が使える診療(保険診療)の自己負担分(例:診察、検査、手術、入院の治療費など)
  • 対象にならないことが多いもの(例)文書料、予防接種など
    • 差額ベッド代(個室料金など)
    • 入院中の食事代
    • 保険外の治療(自由診療)
    • 文書料、予防接種など

いつの分を計算する?

いつの分を計算する?

利用方法(2つのやり方)

  1. あとで申請して払い戻しを受ける
    いったん窓口で多めに支払って、あとで加入している保険に申請すると、上限をこえた分が戻ります。
  2. 事前に手続きして、最初から上限までの支払いにする
    「限度額適用認定証(げんどがく てきよう にんていしょう)」などを事前に用意すると、病院の窓口での支払いが上限までになります(マイナ保険証で対応できる場合もあります)。

どこに相談・申請する?

  • 会社員など(社会保険):加入している健康保険(協会けんぽ、健康保険組合など)
  • 自営業・学生など(国民健康保険):住んでいる市区町村役所(国保の窓口)

外国人の方のポイント

  • 日本の公的医療保険に加入していれば、国籍に関係なく利用できます。
  • 領収書(りょうしゅうしょ)は申請に必要になることがあるので、必ず保管してください。
  • 会計の中に「保険が使える部分」と「保険外の部分」が混ざることがあります。わからないときは病院の会計で確認すると安心です。

障害年金制度

English summary: Disability Pension provides income support when illness or injury makes work and daily life difficult, if you meet key requirements such as the first medical visit date and contribution conditions. In many cases you can continue receiving it while living overseas, but some types may stop when you no longer have an address in Japan.

どんな種類がある?(国民年金/厚生年金)

  • 障害基礎年金(しょうがいきそねんきん):初診日(しょしんび)に国民年金(こくみんねんきん)に入っていた人などが対象。原則として1級・2級が対象です。
  • 障害厚生年金(しょうがいこうせいねんきん):初診日に厚生年金(こうせいねんきん)に入っていた人(会社員など)が対象。1級・2級・3級があり、1級・2級の場合は「障害基礎年金」も一緒に受け取れることがあります。

どんなときに受給(じゅきゅう)できる?(主な条件)

  1. 初診日が大事
    障害の原因になった病気やけがで、はじめて医師(いし)の診察(しんさつ)を受けた日を「初診日」といいます。この日に、どの年金(国民年金/厚生年金)に入っていたかで、受け取れる種類が決まります。
  2. 保険料(ほけんりょう)を一定期間払っている(または免除)
    原則として、初診日の前日に、保険料の納付(のうふ)や免除(めんじょ)の条件を満たしている必要があります。※20歳前に初診日がある場合は、納付要件が不要なケースがあります。
  3. 障害の状態が基準に当てはまる
    原則として「障害認定日(しょうがいにんていび)」(多くは初診日から1年6か月後)に、国の基準の障害等級(1級・2級・3級など)に当てはまる必要があります。認定日では等級に当てはまらなくても、その後悪化した場合に申請できることもあります(事後重症)。

帰国後(海外に住む)も受給できる?

原則として、障害年金は海外に住んでも受け取り続けることができます(日本の口座に振り込み、または海外の口座へ送金など)。ただし、海外に引っ越すときは、住所(じゅうしょ)や受取口座(うけとりこうざ)を年金側に届け出る手続きが必要です。

  • 注意:20歳前(はたちまえ)の傷病(しょうびょう)による障害基礎年金を受けている場合は、海外に転出(てんしゅつ)して日本に住所がなくなると、原則として支給が止まります。帰国して日本に住所を戻すと、再開できることがあります。
  • 海外に住む人は、年に1回「現況届(げんきょうとどけ)」などの提出を求められることがあります。期限に遅れると支払いが一時的に止まることがあるので注意してください。

どこに相談・申請する?(外国人の方も同じ)

  • まずは年金事務所、または(国民年金の手続きが必要な場合は)市区町村役所の年金窓口に相談します。
  • 申請では、初診日を確認できる書類や医師の診断書(日本の様式)が重要になります。
  • 手続きが難しいと感じる場合は、社会保険労務士(しゃろうし)に相談する方法もあります。

民間保険の考え方(生命保険・学資保険)

English summary: Because Japan’s public systems cover part of medical and disability risks, private insurance can focus on gaps. A common approach is to keep life insurance minimal at first and consider education insurance (gakushi hoken) to plan and secure future school expenses, while understanding cancellation and inflation risks.

日本には、公的(こうてき)な保障(ほしょう)(健康保険、高額療養費制度、障害年金など)があります。そのため、民間(みんかん)の保険は「公的制度で足りない部分」を補う(おぎなう)目的で考えると分かりやすいです。

公的保障でカバーできること(例)

  • 病気やけがの医療費:健康保険で自己負担が軽くなり、高額療養費制度で1か月の負担が一定額におさえられます。
  • 働けない状態が続く場合:障害年金の対象になれば、生活費の一部を支えるお金になります(条件あり)。

生命保険は「とりあえず最低限」にする考え方

公的制度で医療費や障害のリスクにある程度そなえられるため、生命保険(せいめいほけん)は最初から大きく入りすぎず、まずは必要最低限(ひつようさいていげん)にする、という考え方があります。たとえば「もし自分が亡くなったら家族の生活費が足りない」「子どもの教育費が用意できない」など、不足する分だけを民間保険で準備します。

  • 扶養(ふよう)している家族(配偶者や子ども)がいる
  • 住宅ローンなど大きな借入(かりいれ)がある
  • 貯金(ちょきん)が少なく、すぐに生活費が足りなくなる

学資保険(がくしほけん)を勧めたい理由

  • 教育費(きょういくひ)を計画的(けいかくてき)に準備できる:毎月決まった金額を積み立てるので、貯め忘れを防ぎやすいです。
  • 進学(しんがく)のタイミングで受け取りやすい:中学・高校・大学など、必要な時期に合わせた受取設定ができます(商品によります)。
  • 契約者(けいやくしゃ)に万一(まんいち)があったときの払込免除(はらいこみめんじょ):契約者が死亡(しぼう)など所定(しょてい)の状態になると、その後の保険料の支払いが不要になり、満期金(まんききん)は受け取れるタイプがあります(商品によります)。

注意点(デメリットも知っておく)

  • 途中(とちゅう)で解約(かいやく)すると、戻るお金(解約返戻金:かいやくへんれいきん)が払った金額より少なくなることがあります。
  • 毎月の支払いが長く続くため、家計に無理がない金額にします。
  • 物価(ぶっか)が上がる(インフレ)と、将来もらう金額の実質(じっしつ)的な価値が下がることがあります。
  • 教育費の準備は、学資保険だけでなく、預金(よきん)や積立(つみたて)など他の方法もあります。自分に合う方法を比較すると安心です。

まとめると、公的保障がある日本では、生命保険はまず最低限にして、子どもの教育費のように「目標がはっきりしているお金」は学資保険などで準備する、という考え方ができます。家庭の状況(人数、収入、貯金、在留予定)によって最適(さいてき)な形は変わるので、必要額を一度計算してから選ぶのがおすすめです。

合意形成の誤謬(大川小学校メモ)

ゴールデンウィークは私の友人で、岩手の大学で学ぶ中国の学生に会いに行ってきた。

友人とのことを除くと、今回の旅で一番印象に残ったのは石巻市の大川小学校災害遺構だった。学校のすぐ裏手にある山に登らず、川の方に向かって避難誘導させてしまった事件。裁判は教育委員会も含めた組織的誤りであったと結論づけ、結審している。

合意形成の誤謬の視点から見ると誰にでも、どの組織でも起きえることだ。実際、似たようなことがあの時、太平洋沿岸の多くの小中学校で繰り広げられていた。訓練や決断が適正で犠牲を回避した案件。失敗した件。合意形成は失敗していたが、被災しなかった件も多いだろう。

南三陸町の災害メモリアル展示の中に、避難に成功した学校の先生のインタビューがあった。311のはるか前から避難先を山とするか屋上とするか、何年も議論を続けていたという。展示では山への避難を主張していた先生のインタビュー動画が流れていた。

動画では「普段から話し合っていたことが重要だった」と結論づけていたが、この方が屋上避難の疑問を呈し異議を申し立て続けたことが、本番での教頭の発言と校長の決断につながったことがよくわかった。揺れの中で全校放送に向かう教頭先生が「校長先生、山ですね」と了解を求め、校長が即座に同意する場面があった。

「失敗の本質」という本があったが、合意形成の失敗は多大な犠牲を生むことがある。岩手の大学生を襲っている国民的な外国人排斥運動もその一つだ。

「外国人が得をしている」と信じている人と「悪い外国人と良い外国人がいる」という幼稚な人間観が背景に透けて見えるが、他にも多くの要素がある。それぞれの要素を自覚しその虚構を見破ることができても、その通りに合意形成はされない。

屋上避難に疑問を呈し抵抗していた先生のような人を「野党はギャアギャアうるさい」と決めつけた国民が一斉に自民党に投票した。自民党にとってもこれは良くないことではなかったか。

沖縄の歴史概要メモ(1)

少し前に勉強した沖縄の歴史を旅行に際して復習したので、メモを整理して残しておく。従ってこれが全てではもちろんない。

戦中、戦後史は今後勉強するものとする。

 

1 沖縄諸島の形成

沖縄諸島(南西諸島)は45万年前(宮古島諸島は40万年前)に形成されました。

2万年前の氷河期終了で海水面が上昇し今の形になりました。

2 人類の渡来(32000年前~紀元前8000年)

約3万年前に人類が渡来しました。当時の航海技術から漂着ではなく航海によるものと考えられています。Ex.港川人(1万8000年前)八重瀬町

3 貝塚時代

本土の縄文から弥生時代のころを沖縄では「貝塚時代」といいます。農耕の渡来と定着が遅く、平安時代頃でした。6300年前から5600年前にサンゴ礁が形成され、3500年前には今の礁嶺が発達しました。採集と狩猟、豊かなサンゴ礁による漁撈で十分食料がまかなえたことが背景にあります。

4 グスク時代(本土:鎌倉時代

「城」と書いて「グスク」と読みます。中国式の城に近い形。城群は世界遺産になっている。

農耕が伝来し社会が大きくなると豪族「按司(あじ)」が台頭しました。

沖縄はやがて3つの国に統合され(三山時代といいます)、のちに浦添グスクの小さな勢力を束ねていた尚巴志が中山を滅ぼし、首都は浦添市から那覇市首里に移しました。後に残りの2山を統一して琉球王国となります。

5 琉球王国時代12世紀から19世紀(本土:室町時代から江戸時代まで)

琉球王国は各地の按司首里に呼び寄せ、代官を派遣して各地の統治させる中国方式で統治したため、中央集権型の社会となりました。国王の尚氏による統治は途中一度途絶えましたが(第一王国時代)、有力な臣下により再建され(第二王国時代)ました。

政治体制の整備と同時に祭祀をつかさどる各地の神女を束ねる役職を作り、政治と宗教の両面で統治を確立しました。

琉球独自の美意識、工芸技術、芸能が花開いたのはこの時代です。

 

「万国津梁(ばんこくしんりょう)」

 多くの国々の貿易港(津)の架け橋(梁)という意味で琉球の繁栄を表す言葉です。

 琉球王国は中継貿易で栄えました。主な交易品は中国から陶磁器や絹製品、東南アジアから胡椒、象牙、染料、日本から刀剣、硫黄(火薬の原料)です。

6 薩摩侵攻

江戸時代が始まり幕府が海外貿易を禁止すると、琉球の交易利権に目を付けた薩摩は幕府に対して秘密裏に琉球を占領し藩に替わって貿易させ、多額の貢納品を要求しました。琉球は中国に対して独立国として交易を継続し貿易ルートは維持しました。

中国から王国として認めてもらう冊封体制の中で、冊封使の歓待が行われ工芸議中が発達しました。

7 琉球処分(明治時代)

本土で明治維新が起きると明治政府は琉球支配下に置こうとしました。明治政府は清国と争い、軍隊を首里に派遣して首里を占領、尚王を東京へ移住させてしまい実権を奪いました。沖縄県を設置し幹部を本土からの派遣とし、沖縄は名実ともに本土の支配下にはいりました。

8 旧慣温存政策

明治政府は沖縄の支配階層や教育や文化を新制度に改めませんでした。このことは沖縄の近代化に大きな影を落とすことになります。義務教育が導入されたのは本土より10年遅れた1890年代のことでした。

特に琉球士族層を廃止することで清との琉球争いに不利になることを明治政府は恐れました。一部の士族が清に渡り抵抗をする動きがありました。この方式は台湾への

9 人頭税・地割制度

旧来の人頭税を維持したことで農民の生活を長く圧迫しました。土地の広さや収穫量によらない税制は過酷なものとなりました。15歳から50歳男女全員に男性は穀物(粟など)、女性は「宮古上布」などの高級布を納める義務がありました。減免制度はなく背丈が一定を超えると課税対象となったため、口減らしが行われたと言われています。

土地は共有とされ、数年で割り当てが変わってしまうため土地改良の動機が薄れ生産性が向上しませんでした。納税は村の連帯責任のため逃亡者や死亡者の分を他の村民が負担しました。

10 買上糖

明治政府の殖産興業の方針に従い沖縄は砂糖生産に力を入れました。全量を政府が買い上げるため安い値段で買い上げられ、利益は統治費用とされました。琉球時代の士族制度を維持したため、彼らへの俸禄もそこから支出されました。

11抵抗運動

本土のような地租改正による土地の個人所有と現金納税を認めると砂糖の利権を政府が失うことになるため政府は改正に応じませんでした。1890年代から抵抗運動が始まり、琉球処分から24年を経た1903年にようやく本土並みの税制に変わりました。

俸禄を失った貧困士族が街に溢れました。一部は教師・公務員となり実務層を形成しましたが、移民として島外に出るものもいました。

12 世界恐慌とソテツ飢饉

大正から昭和に起きた世界恐慌で単一産品に依存していた沖縄は壊滅的な打撃を受けました。食糧の欠乏で野山に生えているソテツ(弱毒性)を食べざるを得なくなりました。これをソテツ飢饉と言います。

13 移民の時代、皇民化政策

貧困からの脱出のため大阪や神戸への移住が進みましたが、当時政府が進めていた海外移民政策によってハワイや南米へ移民する人が増えました。日系ブラジル人で沖縄ルーツの方が多いのはそのためです。

戦争準備のために沖縄の教育は急速に改められ、皇民化教育が進められた。小学校では方言を用いたものを罰する「方言札」を用い子どもたちを厳しく管理しました。

 

琉球文化>

現在まで受け継がれている文化には士族の廃止を背景としたものがあります。制度の近代化で俸禄を失った士族が、代々受け継がれてきた芸術や礼節、食や血縁の仕組みを住民の中に持ち込んだことによるものです。例えば生活のために三線を庶民に教えたことで広く愛されるようになり、中国からの冊封使をもてなすために発達した琉球舞踊は現在では沖縄を代表する芸能の一つとなりました。宮廷のハイカルチャーが庶民の娯楽に融合することで生まれた独特の文化が沖縄文化の特徴といえます。

<沖縄音楽>

戦後の米軍支配時代を経てロックやジャズと混ざることで独特のリズムやメロディーが多数生まれました。「混ざる」という意味の「チャンプルー」という言葉があります。

 

沖縄戦跡めぐり2

ひめゆりの塔の他にもいくつか沖縄戦に関するものを見ることが出来た。

 

沖縄県平和祈念公園

沖縄戦終戦の地とされているが、実際には首脳部が降伏の責任を果たさずに自決してしまった後にこの世の地獄となった沖縄県南部地域の象徴のような公園である。

各県の慰霊碑がこの地域に集まり、特に公園内には多数の県や郵便関係者などの慰霊碑が建てられている。少し離れたところに韓国人犠牲者の慰霊碑もあった。

信濃の塔」は長野県出身者の戦没者を慰霊する塔である。各県の慰霊碑があると聞いてぜひこの地を訪れたいと思っていた。「信濃の国」の歌碑があり、一見して長野県だとわかる。出征先でも信濃の国を歌ったりもしたのだろうか。長野県議会議長西沢寛志氏の追悼文がある。

「顧みれば、諸霊は遠く祖国を離れ、北漠に北斗を仰ぎ、南溟は十字の星陰のもと、東は太平洋の海原の崖、西は印度洋の波打つ限りの諸地域において、陸海空の苛烈なる死闘に、はたまた言語に絶する気象風土等の悪条件下、非運にも異郷に没して、再び家郷に帰らず」

という一節がある。山国に生まれ、戦争さえなければ美しい山河に囲まれて一生を終えた方も多かったはずだ。言葉もない。

 

摩文仁(まぶに)の丘

平和祈念公園の中にある。広い太平洋を見渡せるが、海沿いは崖となっている要害の地である。「沖縄戦の組織的戦闘はここで終結した」と表現されるが、正確にはここで牛島司令官らが降伏せずに自決してしまったために、軍民ともに大勢が虚しい残酷な死を迎えることになった。

当時の摩文仁村の人口の半数にわたる1000名が巻き込まれ死亡。追い詰められた軍人、軍属、民間人も大勢が命を落とした。

ひめゆりの塔、健児の塔、平和祈念公園を合わせて沖縄戦跡国定公園に指定されている。

 

チビチリガマ、シムクガマ

米軍上陸地点に程近い読谷村にある。沿岸での防衛を諦めた日本軍を追って米軍が上陸。同時に米軍は掃討作戦を行った結果、この地域での集団自決が各地で起きたが、そうで無かった場所もある。チビチリガマとシムクガマはその対照的な代表例と言える。両ガマは近くにあることから生と死を分けた対照的なガマを見ることができる。それらを分けたのは対話の可否だったと評価できる。

 

チビリリガマ

1944年10月空襲以来、爆撃を受けるたびにガマへ避難していた。

上陸初日に米軍は同地に到達する。米兵はすぐに降伏を呼びかけたが応じず、竹槍を持って突撃しようとした人々が銃撃された。再三に渡る米兵士の呼びかけを信じず、壕内にいた元日本兵から出ていけば殺されると説いたことから壕内の人々はそれを固く信じてしまった。竹槍で戦うはずが自殺を選ぶ。犠牲者の大半が子どもであった。親類や親が手にかけた話はすでに有名となっている。自ら選んだ死とは言えないことから「自決」という表現をとらない記事も多い。全住民の三分の一程度を占める80名あまりが「自決」している。煙で死ぬくらいなら戦って死のうと出ていった人たちだけが生き残った。

遺族の意向によりガマ内部への立ち入りは出来ないが、外部から中の様子を伺うことができた。1987年に遺族による慰霊のための像が建てられたが、右翼団体によって同年破壊されるという事件が起きた。2017年には本島中部に住む4人の少年により荒らされる事件が起きた。警察の取り調べに動機は「肝試し」と供述している。

周囲には読谷村役場による「ハブに注意」の看板が建てられていた。

 

シムクガマ

すぐ近くにあった。

1000名近くの住民が避難していたが、米兵士の呼びかけに応じ全員死ぬことなく脱出した。子供により構成されていた自警団が竹槍で突撃しようとした時、それを押し留めた人がいたことが幸いした。ハワイ移民帰りの比嘉平治氏と比嘉平三氏が「米兵は殺さない」と説得した。二人とも英語ができたことから壕外の米兵に交渉できたことが幸いした。1995年に両名の功績を讃える石碑が建てられた。

 

艦砲ぬ喰ぇー残さ〜の碑

上陸地点を一望できる位置にある。歌碑がある。

生き残った人々は苦しみと後悔に苛まれ「艦砲の食べ残し」と自嘲的に自らを呼ぶ歌がヒットした。その歌碑が建てられた海は透きとおるような美しさだったが、この海は湾をいっぱいに埋めるほどの米軍艦艇が押し寄せた海であると思うと言葉もなかった。