ある中華そば屋の歴史

ある地域のイベントで、私の家の歴史を書いてほしいという依頼があった。一部改訂して記録のために記事にしておく。

 

昔、下諏訪町の食祭館の裏手(山本紙店のほぼ向かい)に小さな中華そば屋があった。

開業は昭和初期のことと思う。創業者は私の祖父。北信の小さな山村の出身で料理の修行の後、若い頃は県内各地を転々としたという。結婚した後も長野市や木曽谷などを転々とした後、当時製糸業の絶頂期を迎えつつあった下諏訪町に一家はやってきた。叔父(故人)の話によると、最初は蕎麦屋をやろうとしたという。ところが、町内にはすでに有名店があり、これはとても敵わない、分が悪すぎると踏んだのか中華そば屋を始めることにした。店名は出身地の名をとった。

 

最初は湯田仲町に店を開いた。私の亡父がまだ子どもの頃のことだ。斜向かいに風呂屋があったので、当家の男の子たちは家の中で服を脱ぎ、素っ裸でタオル1枚と風呂代を握りしめ、道路を渡って風呂屋へ飛び込んだという。近くには故高橋文利町長も住んでいた。

 

下諏訪町中心市街地は工場の街だった。通勤の時間になると片倉製糸などに勤める女工さんや従業員さんたちがひしめくように、御田町の商店街を闊歩していた時代だ。役場はまだ現在の奏鳴館のところにあった。よく出前を頼んでもらったという。

 

兄弟たちは長じると店を手伝うようになった。父は主に出前の配達係だった。旅館にはまだ大勢芸者さんがいた時代だ。父はお座敷にもしばしば配達をしたという。

 

後に店は菅野町に移った。実に大勢の町内のみなさんにご利用いただき、おかげさまで当家の子どもたちは大人になることができた。父の姉たちも無事嫁ぎ、長兄が店の跡を継いだ。

 

私の父は猫が大嫌いだった。母も私も猫が好きだったため1度は飼いたいと思っていたが、どうしてもこれを了としなかった。戦後の食糧難時代に父の家では鶏を飼っていたが、猫が天敵だったためらしい。鶏は大切な食材でもあり一家のタンパク源だった。そのタンパク源を狙う猫は、父にとって天敵そのものだったのだろうか。

 

全くの余談だが父は水泳が得意だった。あの年代の割には大柄な背丈を存分に活かした力強いストロークが持ち味で、自由形では近隣で敵う者がいなかった。毎日諏訪湖の古川の河口から岡谷の湊まで往復泳ぐ特訓をしていたという。その父は昭和20年代に開かれたこの地方の水泳大会で優勝している。高校時代は水泳部の部長で本当に怖かったという。海軍の軍服を何処かから手に入れてきて、よく着ていたと聞いたことがあるそうだ。

 

余談をもう一つ。父は非常な大食漢でもあった。食糧がまだ不足がちの時代のある日、祖母が一家の料理を整えて子どもたちを呼びに行った隙に父が素早く上がり込み、兄弟たちの食べる分をあっという間に平らげて素知らぬ顔で出ていってしまったという。このエピソードは親戚の集まりのたびに笑い話として繰り返され、父の葬儀の日にも参列した親戚たちがそのことを面白そうに話していた。げに食い物の恨みは恐ろしい。父の水泳の速さは、もしかしたら夕食に兄弟の分を食べてしまったからではないだろうか。私が20代の頃、60歳を過ぎた父に一度水泳の競争を挑んだことがあるが、あえなく敗退してしまった。

 

商業高校を卒業後、進学を諦めた父は得意のそろばんと会計を生かして地元の商工会議所に勤め、40歳で転職し隣市の商業団体の事務局長を定年まで務めた。晩年までそろばんを手放そうとせず、電卓で計算した後にそろばんで検算する癖は最後まで直らなかった。最後の病床にそろばんを持って行こうとしたので「お父さん、さすがにもう要らないでしょう」と言ったところ、ちょっと寂しそうにしていた。

 

話は栄軒のその後に戻る。祖父が亡くなり長兄の弘がしばらく店を続けた。私が生まれる少し前に祖母が亡くなりその数年後に閉店した。生前の父に閉店の理由を尋ねると「自動車の時代になって駐車場がない」ことと「スープの流行がすっかり変わってしまった」というのが主な理由だったそうだが、他にも理由はあったかもしれない。この店のスープの取り方はシンプルで、鶏を一羽大鍋に入れて一晩煮込むだけだった。火の番は兄たちが行ったという。

 

祖父母も、叔父も、叔母も、父もすでに故人となってだいぶ月日が経ってしまった。

 

けれども、私がその血筋と知ると、今でも栄軒を覚えている年配の方がよくお話を聞かせてくれる。

 

「小路をな、親父に手を引かれてよく行っただよ。もう途中でヨダレが落ちそうになるくらいだったな」

「よく勤め先で出前をとった。表玄関からじゃあ体裁が悪いで、会社の裏口からそっと入れてもらったな」

「俺はかた焼きそばをよく食べた。あれは本当に美味かったな」

 

そんなお話をお聞きしていると、かつてこの町で暮らした当家の一家がどこかで照れ笑いをしているような気がする。

 

閉店後、長兄は隣市に引っ越した。店の跡はスーパーとなり、その後は駐車場、現在は食祭館の裏になっている。