「下諏訪は観光の町でしょう」という誤り

しばしば町外の方から、表題のような言葉をいただくことがある。

町民の方も多くは同じような認識でいるのではないだろうか。

 

観光収支は以下の通り。

観光業からの税収と行政による税金を財源とした設備投資の額では、後者の方が圧倒的に上回っている。

<支出>

観光協会への補助金、トイレ維持費、観光施設の修繕費、担当部署の職員の人件費だけで支出は毎年数千万円を超えている。

加えて下諏訪町は数年に1回大型の箱物を作っているため、これを各年度に割返せば少なめに見積もっても支出は少なくも4、5千万程度はかかっている。

<収入>

観光事業者の固定資産税、従業員のうち下諏訪町民の住民税、法人町民税を全額合計しても3千万円には届かない。

 

この説明を最後まで聞いてくださる方はあまり多くないが、仮に最後まで聞いても「もっと上手くやれば・・・」という言葉が聞かれる。

「もっと上手くやれば」とは具体的にどんなことなのだろうか。

 

 

確かに小規模な観光地が住民の参加を得つつ、コストを抑えた形で良い雰囲気を作っている観光地は多い。

しかし、有権者の多くが「観光の町」だと信じているこの町で、そんなことが可能なのだろうか。

下諏訪町のような自治体は政治的には常に結果を出し続ける必要がある。有権者にとって結果とは雰囲気や数字ではなく、往々にして目に見える形あるものだ。この町で箱物行政が止まらないのはそれが最大の原因であると思う。

一部の住民が「〜を活用すれば下諏訪町の観光は活性化する」と首長に進言し、その言葉を受けて(あるいは本人の思いつきで)建物の建設が決まる。こうなると下諏訪町には「さまざまな観光、文化資源がある」という状態は、むしろ欠点とすら言えなくもない。

例えば温泉である。

まず、多くの人々が勘違いしているが、下諏訪町には温泉はない。

すでに既に自噴しておらず、海水面より低い地層から汲み上げなければ現在の湯量を維持できない。下諏訪町の温泉会計の収支は確かに均衡はしている。しかし、「温泉を活用して〜すべし」という声が湧き上がる状況は、もはや見えないコストと言えないだろうか。

このような観光に薄甘い夢を見てしまうのは、地域についての現状認識が間違っているからである。下諏訪町は既に少子高齢化の時代を過ぎ、長野県の山村のように長期低迷の時代に入っている。

この段階において行うべきことは、人口の減少スピードを緩やかにし長期的な地域社会の安定を目指す施策だ。

実際それはそんなに難しくはない。

福祉と教育政策の充実を図ることだが、別段全国が驚くような奇抜な政策は必要ない。1人でも多くケースワーカーを配置するだけで十分なのだ。個別のケースの解決スピードを上げることで、ケースの周囲にある地域社会の問題が解決していくからだ。

こうした地道な政策には注目は集まらないが、実効性は極めて高い。一つの貧困問題はその周辺に数十個の地域社会の課題を持っている。それらを一つ一つ時ほぐすのは、ケースワーカーの力に拠らねばならない。

もっとも、こうした政策は下諏訪町のような「観光資源の豊かな」自治体にとっては最も苦手とするところである。華やかなイベントを行う力はあっても、多重債務者を法制度を駆使して救う力を持っていない。放棄されている空き家に所有者の貧困、疾病が絡まっているという認識はあっても、それに踏み込むだけのマンパワーはない。こうした働きは行政にしかできないが、行政でなくてもできる「観光施策」が優先されてしまう。なぜなら地味な施策を支持する有権者は当事者を除けばほとんどいないからだ。

 

外来の客の落とすお金に頼るのではなく、この町が持つ地場の力を見直し、それを再生することに力を集中しなければならない。

もちろん「地場の力」は温泉でも諏訪大社でも、宿場町でもない。

今我々町民が直面している土地家屋の相続問題であり、家族の疾病や介護であり、学校設備の老朽化や支援員不足を一つ一つ解決していくことである。解決した分野は上昇軌道に乗る。そうしたものを無数に積み上げることがこの町の再生につながると私は思う。