今の学校はいかにして「学校」になったのか

「学校ってなに?教育の歴史から学ぶ」(大阪商業大学教授 宮坂朋幸先生)

下諏訪公民館(10月、11月)2回連続講座に出席した。

 

冒頭、先生から「歴史を学ぶ」「歴史から学ぶ」のお話があった。「歴史から学ぶ」とは、何を学ぶのか。歴史を学ぶのは、歴史上同じようなことがあったかもしれない、歴史の失敗から学ぶなど意義がある。

 

本講座は歴史から学校を考えるというもので、初回は寺子屋(手習い塾というらしい)、2回目は日本の近代学校制度「学制」ができた当時の学校の様子をお聞きした。両者を比較してみると、現在の学校が抱える問題点が浮き彫りになるという建て付けで、とてもよく理解できたのでまとめておく。

 

初回、「寺子屋」について。

寺子屋は私が想像していたものとはずいぶん違っていた。私は武士くずれの先生が一斉に教え、従わない者には容赦なく懲罰をくだしているようなものだと思い込んでいた。おそらく歴史小説で読んだ脚色された松下村塾か何かのイメージを持っていたのだろう。

 

江戸時代の「寺子屋」では生徒の進度に合わせる形で読み書きを教えていたという。教える役の人が子どもの後ろや横につき、ひとつひとつ字を教えていく絵図が残されている。

教室内も自由で先生は前にいるが、いちいち手出しをせず、それぞれが好き勝手にやっているような様子だった。テストの代わりにみんなが思い思いの字を書いた展示会のようなものが行われていた。女性が晴れ着のような服装で参加していたのが面白かった。

 

このような「寺子屋」がなぜ現在のような形になったのか。

明治以降の「学校」を比較するととてもはっきりする。

 

明治以降全国に近代教育を普及するために政府が施行した「学制」により、日本の子どもたちの教育の場は大きく変わった。

一番大きく変わったのは一斉に教える形式に変わったことだ。

カリキュラムと時間割が作られ、それを機能させるために生徒の規則が設けられた。登下校指導や生活指導、父母へのあいさつまで決められている。当初は学校就学への地域社会への支持を取り付けるためであった。初期の学校には体育館や保健室のようなものはないが、裁縫室があった。女子向けの実学を教えることで就学への動機づけとしたかったのであろうとのこと。

落第についての規定も決められた。登校しない生徒は放校処分となり、地域で名前が公表される処分が下された。寺子屋時代は「やりたいことをやり、必要な知識が身に付けば良い」だけだったものが、明治以降は選別機能を持つようになった。(教育社会学でそんな話があったかもしれない)

 

効率よく行う授業は、不平等条約改定のための文明化を目指すものでもあった。同時に産業の近代化、とりわけ工業化や国民軍の創設にも資することになった。

 

明治が始まり、国の号令一下近代学校が全国に作られた。当初目標は5万校余りだったという(令和の今は2万弱)。下諏訪にも整備された。先生にご準備いただいた資料の中に町誌などから集めていただいたものがあったが、大勢の子供たちが通学していたことが見て取れた。

 

当時の「学校」は擬洋風の建物が建てられ、「近代」を前面に押し出した。近隣だと松本の開智学校や山梨の三代校舎などに残されている。「教場」(教室のこと)があり、試験は特別にしつらえた別室で行われた。当時の試験会場では先生が前にいる今の形式ではなく、子どもたちの周囲を村の要人が取り囲むように配置されていた。口頭諮問のような試験も行われ、子どもたちは1人ずつ裁判所の尋問席のようなところに座らされて行われていたという。(まさに選別機能そのものではないか)

 

今のような給食室や保健室、図書室はなく、教員は教えることだけに特化しそれ以外は学校事務室にいる学務員(今でいう教育委員会事務局職員だろうか)がすべて担っていた。いつどのような背景で教員にその役割が変わっていったのかはこれまであまり研究がなく、今後宮坂先生による研究が待たれるところである。

 

最後に、現在の学校制度の問題点について受講者で意見を出し合う場があった。私も発言したがうまく説明が出来ず、消化不良になってしまったのでメモしておく。

 

私が言いたかったことの概略は以下の通り。

特にここ10数年の間にさまざまな新しい教育カリキュラムが追加された。「キャリア教育」「学校ICT」「道徳教育」「地域教育」「食育」「小学校外国語教育」などなど、「どんな時代でも生きていける子どもを育てる」ことを名目に続々と導入された。教育内容が中教審から官邸主導に変わり(放送大学大学院テキストから)、この傾向は加速したように思う。

 

教育内容を考えた人々は、子どもたちを思って提言したものだろう。しかし、「地獄への道は善意で舗装されている」とはよく言ったもので、すでに目いっぱいだったカリキュラムに上積みされた膨大な業務量が、正常な学習環境を破綻させつつある。教員の退職や病休が相次ぎ教育体制が破綻した。「教員の働き方改革」という名の誤魔化し政策が始まり、先生のやりがいを訴えた文科省の旧Twitterアカウントが何年もにわたって炎上し続けている。

 

当然ついていけない子どもたちが激増した。学校崩壊を招いたこの問題について、国民や地域の関心は極めて低い。子育てが終わればそれで終わりなのだ。学校の問題は地域には公表できないため(個人情報の問題からできない)、労働環境の悪化と矛盾する国の方針や地域からの一方的な「子どもに〜を教えるべきだ」という要求に振り回され続ける学校と子どもたちの実態はほとんど知られていない。

 

思い返せば、この数十年間の「一般社会の意見」は、子どもたちを振り回してきた。

詰め込み教育」への批判からカリキュラムを減らし自主性を重んじる教育に転換したところ「ゆとり教育」と批判された。

「今の子は自分で考えられない」という批判から課題探求型の教育や「アクティブラーニング」が導入され、子どもたちはひっきりなしクラスメイトや教員からの問いかけやグループ学習に耐えなければならない授業に様変わりした。現場で教員がどれだけ奮闘しても不登校問題は深刻化している。公立中学には大学生のような知能を持った子もいれば掛け算もできない子が混在している。矛盾の中で微妙なバランスを保っている。この子達がグループ学習で発表を強いられれば何が起きるかは火を見るよりも明らかだと私は思うが、国はそんなことはお構いなしだ。一部政治家とその取り巻きの意向を汲んだ「教育なんとか会議」の命令により、学校と地方教育委員会自治は無視され、実態とかけ離れたカリキュラムが押し付けられている。1日椅子に座っていられない子に必要な教育は、本当に小学校英語なのだろうか?

 

自分の探求したいテーマを「探求する」という教育が導入されているが、自分で探求するテーマを「考えさせる」ように仕向けなければならない。雲を見てぼーっとしていたいだけの子供に「なぜ雲にはいろんな形があるのだろう」と思うように仕向けるのが教員の仕事になった。心理学を学んだことのある人ならピンと来るのではないか。これは「洗脳」に他ならない。

勉強しない子に罰を与えた明治の教育は、マインドコントロールといえるかもしれない。つまり、平成令和の教育はマインドコントロールから洗脳に変わっただけで、本質は何も変わっていないと私は思う。そして洗脳にうまく適応できなかった子たちは置き捨てられている。

 

先生のお話にもあったが日本の教育制度はスクラップ&ビルドができていない。古い教育の上に新しく作ることを繰り返してきた。

民間企業であれば現在の学校は経営として「崩壊している」と評価できる。抜本的な経営再建が必要な状態にある。PTA予算が学校設備に流用されるなど、不適切な資金の流れや膨大な人件費の不払いが前提のビジネスモデルは重大な欠陥がある。

重大な欠陥のあるバスによって運行され、運転手が次々と辞めているバス会社があったら、だれもその会社を「健全だ」とは言わないだろう。ただ、政策上「崩壊している」とは言えない大人の都合で「崩壊していない」ことになっている。重大な問題には目を向けたくない忠良なる国民によって今も問題はなかったことにされている。「教員の働き方改革」という言葉や、「誰一人取り残さない教育」という言葉はそのようにして生まれたのだと私は考えている。その言葉を生んだのは政治家の意思決定ではあるが、国民の善意がそうさせたのだと私は考えている。

 

ところで、学校設備の運用など、教育以外のことが教員の仕事になったのはいつからで、どんな背景があったのだろうか。先生方を苦しめる「校務分掌」がいつから始まったのか、先生は研究されているとのことだ。てっきり先行研究があるものだと思っていた。

今までみんな何をやっていたのだろう?部活についてはどうなのだろう。

 

なお、社中学と清陵高校の出身者はお気づきかと思うが宮坂朋幸先生は私の中学高校の1学年先輩のあの宮坂先輩である。