下諏訪みらい塾第2回 記録

 下諏訪町公民館主催の市民が作る講座「下諏訪町みらい塾」の第2回に参加した。

 今回は下諏訪町のかつての姿を振り返りつつ、自分のライフヒストリーに重ねてみる回。前半は講師がPowerPoint下諏訪町収蔵の写真からかつての姿とその時代を紹介。

 後半はグループワーク。下諏訪町の気に入っているところや下諏訪町に来たきっかけなどを話した。下記記録のうち、後半のグループワークは私が参加したグループのみの記事となっている。

 

第2回 講師&コーディネーター 下諏訪町立図書館 前館長 井上喜久美 氏

 

 下諏訪町にはかつてどのようなものがあったのか。写真で下諏訪町がどんな姿をしていたのかを振り返ってみたい。下諏訪町図書館では現在「下諏訪デジタルアーカイブ」というサイトを開設している。かつての下諏訪町の姿を写真と記録で見ることができるデータベースで、登録すれば自分でも投稿ができる。ぜひ参加してもらいたい。今日はそこに記録されている写真の中から一部を紹介したい。

 

1 大正から昭和初期

・冒頭の写真 下諏訪町で初めて自動車で和田峠を越えたのは浜さんという方だった。その後、自動車で和田峠を越えるサービスを始めた。和田峠がまだ舗装されていない様子が見て取れる。山を切り通して道路を通した。

万治の石仏の写真。大正14年の念仏講の写真。着物姿の人々が石仏の前で座っている。私(講師)の祖母の世代はまだ普段から着物だったのではないか。

下諏訪町の旧庁舎がオルゴール館「すわのね」の場所に建設された。

・昭和3年 「諏訪飛行協会」という団体が設立され、現在の赤砂崎に飛行場が設置されて小型飛行機が飛んでいた。格納庫跡は今も残っている。

・昭和初めのスケートの写真。下諏訪で育った方の中には秋宮リンクに通ったことのある方もいるのではないか。このスケートリンクは明治40年代から開設されており、カーリング大会やフィギュアスケートなどが行われた。

・この頃、下諏訪町内にあった火の見やぐらの写真。これは戦時中に金属回収のために取りれされてしまった。

・昭和2年馬車の写真。下諏訪にも馬車が走っていた時代があった。祖母の家の記憶では、道には馬糞が落ちていた。

・伏見屋商店(講師の実家、フシミヤ)の人々の集合写真。住み込みで働いている方もいた。

 

この頃の世界の出来事

・製糸業不況が始まり、製糸工場が主力だった下諏訪の産業は大打撃を受けた。

1940年(S15) パリ占領

1941年(S16) 東條英機内閣成立

1945年(S20) 硫黄島の戦いと終戦

下諏訪町の出来事

・1944年(S19)の諏訪大社下社山出しの時には、下諏訪町長の高木重吉氏が御柱祭中に柱から落ちて殉職している。

終戦が近くなると、疎開が始まった。御田町などの道路が拡幅された。

・秋宮境内の写真。狛犬が金属回収供出されてしまいなくなった。神楽殿の前には今は大きなしめ縄がかけられているが、当時は東郷平八郎揮毫の「日本一大軍神」と書かれた書がかけられていた。

・秋宮の前の店の写真「大社飴」と看板がかけられている。名物の一つだった。

・1944年の綱打ち(御柱曳行のための綱を作る作業のこと)の写真。人々が手ぬぐいでほっかむりをしている。最近は見かけなくなった。

・明新館(現在の第1区公民館分館)での戦時作業の風景。麻を育てて繊維を供出している。若い人がいないので、老人ばかり。

・御田町の交差点の釜洞(かまほら)商店の写真と近藤理髪店の写真。つい最近まではあった。

・1945年(S20) 終戦による米軍進駐。下諏訪町では現在の四つ角の角地に監視所が設けられた。

・萩倉地区の東俣地区の写真。帰還者の入植が始まる。初めに8人が牧場経営のために入植した。

・下諏訪南小学校の旧校舎、木造で味のある体育館だった。町公民館は当時現在の下諏訪町庁舎の所にあった。町の庁舎を戦後移転する際に公民館を取り壊し、公民館は前述の旧役場庁舎の場所に移った。公民館はその後平成に入り今の文化センターの場所に移転。

・青年演劇の写真。芸能関係の著名人などが下諏訪町を訪れていたこともあり、青年演劇が盛んだった。この中から町を担う人物が何人も育った。

 

1950年代 この頃の世界の様子

1949年(S24) NATO設立 東西冷戦の始まり

1950年(S25) 朝鮮戦争 血のメーデー事件(皇居外苑で機動隊とデモ隊が衝突)

1954年(S29) 第五福竜丸被爆

1955年(S30) ハンガリー動乱 人類が始めて南極点到達

1957年(S32) スプートニク1号初の宇宙空間到達

下諏訪町の出来事 1955年(S30) 人口20,512人

・三国座(みくにざ)のオープン。映画、演劇などが行われた。オープン記念にローマの休日が上演された

諏訪湖横断水泳大会が水質汚染により中止となる。

・1958年(S33) 下諏訪駅構内で第1区と第3区の御騎馬(御柱の行列などに参加。所作などが貴重な文化財として伝えられている)の集合写真。両御騎馬が揃う写真は珍しいのでは。

 

この頃の世界の様子

1960年代 ベルリンの壁が設けられる。冷戦激化。

60年代安保、ケネディ来日、新幹線開通、東京オリンピック

 

下諏訪町の出来事 1960年(S35) 22,602人

・社ヶ丘、星ヶ丘住宅団地の造成

下諏訪町陸上競技大会の開催

当時の写真 

・春宮前の下馬橋の様子。当時は「たいこばし」と呼んでいた。道路が未舗装であることが見て取れる。電信柱が木製だった。

・四つ角の様子。八十二銀行諏訪信用金庫が並んでいた。パチンコ屋とカメラのヤシカの看板が見える。諏訪信用金庫はその後、春宮大門交差点にあった繭蔵の跡地に移転し、現在に至る。

1963年(S38) 東俣の入植者が離村する。

1965年(S40) 高度経済成長、中国の文化大革命川端康成ノーベル賞受賞

ビートルズ来日、三億円事件安田講堂、アポロ11号月面到達、あさま山荘事件

 

下諏訪町 1965年(S40) 人口23,352人

労災リハビリセンター開所、諏訪女子学園開校、いずみ湖造成、下水道の整備が始まる、バイパス計画

(補足:諏訪女子学園とは、下諏訪町に開校した専門学校の一種。縫製、会計などを教えた。数年で閉校してしまったが、戦後の一時期実学を教える学校として大切な役割を果たした。記録は町教委預かりとなっている。)

 

当時の写真

諏訪湖埋め立ての様子の写真。埋め立て前は大きく湾曲した湖岸が見られた。

湯田坂の写真。産婆(助産師)の看板が見える。この頃から旅館が都会などの学校部活動の合宿に使われるようになる。

田植えの様子。手植えであった。

メリヤス工場の写真。メリヤスが盛んだった時代。

ヤシカカメラ工場の様子(御田町)1975年に京セラに吸収されるまで日本を代表する大手カメラメーカーだった。

三協精機の社屋の写真。

町の写真。この頃ボーリング場が下諏訪町にあった。

 

 

1970年代 この頃の世界の様子

ロッキード事件、サンシャイン60竣工、日中友好条約、

当時の写真

1973年(S52)の航空写真。諏訪湖岸にプリンスホテルが見える。ここで結婚式などが行われた。南小学校の新旧校舎が併存している。

 

1980年代 下諏訪町人口 26,574人

イランイラク戦争、ジョンレノン暗殺、グリコ・森永事件

第1回町民まつり(8月1日のお舟祭りに付随して行われる。時代行列などが行われた)

1982年(S52) 下諏訪町レガッタが始まる

1983年(S58) 電話契約数の増加により市外局番が02662から0266に変わる

 

この頃の世界の様子

ベルリンの壁崩壊、冷戦終結

 

下諏訪町の出来事 人口 1965年(S60)26,567人

長野県立下諏訪向陽高校開校

湖岸道路開通、ジョギングロード整備

いずみ湖公園にパターゴルフ場が整備される

保健センター開所、温泉の新源湯が一般家庭への給湯が始まる。

「街かど博物館」の整備(町民の方が持つお宝を公開)

町政施行100周年

写真 みどり幼稚園の様子。子どもが大勢いる。(現在は既に閉園)

 

1990年代

人口 24,535人(1995年)

この頃の世界の出来事

長野オリンピック開催される

 

下諏訪町の出来事

今井邦子文学館開館

時の科学館「儀象堂」開館

 

2000年代 

スマトラ地震

下諏訪町の出来事 人口 2000年(H12) 23,930人

長野県知事 田中康夫氏による「脱ダム宣言」を受け、下諏訪ダム建設中止に

第二 この街学園開所

三協精機日本電産に買収され「日本電産サンキョー」に

 

グループワーク

来たり者とUターングループ

Aさん 千葉県出身。転勤族の父について小学校は5つ変わった。神奈川から昭和50年に下諏訪に来たが県外へ。退職後下諏訪に来た。

Bさん 岡谷市出身。下中の下、上馬場に住んでいる。

Cさん 3年前に下諏訪に来た。老後をどこで過ごそうか考えた時、温泉のあるところが良いと考えた。上諏訪駅で降りたところで案内をしてくださった方が下諏訪の方で、温泉がたくさんある下諏訪町に住居を買った。時々諏訪湖を散歩している。

南小学校に毎週一回お手伝いに行っていたが、コロナで休止になってしまった。

Dさん 私も千葉県出身。ご主人が信州に勤める。諏訪氏の社宅にいたが、地元になじみたいと考えて地域のイベントに出たり、公民館講座に参加したりしていた。

 

下諏訪の気に入っているところ

温泉 諏訪湖 春宮 秋宮