宗教が異なるということ

急激に円安が進行したとはいえ、多くの外国人の方が日本に仕事をしにくる時代は当面続きそうだ。

これまで日本に渡ってきた韓国、ベトナム、中国、ブラジルの国々の方々との間に宗教的差異からくるトラブルはそれほど多くはなかった。無論、なかったわけではないが、日本での生活に馴染みやすい文化を持った方々だったからだろう。

昨年は日本語ボランティア教室でインドネシアの方々に日本語を教える機会を得た。同国は2億人の人口を擁する大国で、現時点では日本の方が経済的に豊かであることから、今後さらに同国からの就労は続くことが見込まれている。

同国はイスラム教徒が大半を占めている。日本はこれまでイスラム教徒を労働者として受け入れたことがないわけではないが(イランなど)すでにその頃の記憶は失われつつある。

もう一度イスラム教徒との付き合い方を振り返っておく必要があるが、その前に私たち日本人自身の宗教性を確認しておく必要があるのではないか。

しばしば「日本人は仏教徒」という方がいるが、クリスマスや初詣を排斥する人は非常に稀だ。ここまでは理解されているが、その手の話をすると「無宗教だから」「あまり真面目ではないから」と言い訳のように言葉をつづける方が多いが、それも違うように思う。

例えば私たちは次のような言葉を自然に発している。

「ご飯はきれいに食べなさい」「悪いことをしたらバチが当たる」「今年もいい年になりますように」「メリークリスマス」「あの方が亡くなったのか、寂しいな」等々。

よく考えてみればこれらには科学的根拠はなく、日本社会に古くから根付く宗教観だ。ほかの宗教の方から見たら「?」というようなものがあることを自覚した方が良いと思う。

イスラム教過激派のニュースが伝わるたびに「宗教は良くない」などという人がいるが、それでは私たちが独特の宗教を持っていることについてはどう解釈するのだろう。

イスラム教のように日本社会の生活スタイルと異なることが多い宗教との付き合い方にコツはあるのだろうか。あるとすれば私たち自身の宗教をよく理解し、それとの違いを言い立てる前に、イスラム教徒の習慣や信仰と同じところを見つけていくことではないか。

宗教の多くは社会を統治する手段の一つとして科学の未発達の時代に発展した。だから共通することは違うことよりもはるかに多い。

過度に恐れることなく、余裕を持って接したいと私は思っている。