トルコ

放送大学イスラームの世界

イスラーム世界の歴史的展開 (放送大学教材)

イスラーム世界の歴史的展開 (放送大学教材)

オスマン帝国は14世紀から20世紀までの600年間続いた王朝である。
本文中でも指摘されているが、鎌倉時代から大正時代までの非常に長い間(日本人の感覚で言えば)続いたことになる。成立にはどのような過程を経、どんな原因で滅亡したのだろうか。

領土
オスマン帝国セルジューク朝がモンゴルとの戦いで衰微した後、現在のトルコ共和国地域の北西部に成立した。諸勢力が分立している状態だった。

呼称
私が世界史を学んだときには「オスマントルコ」と学んだが、最近は「トルコ」の名を外している。その理由は成立時にビサンチン帝国皇女テオドラとの婚姻をし、諸勢力の争いに参入したことから、純粋に「トルコ」なのか?という疑義が生じたからだそうだ。

メフメト2世は大砲を使用するなどして、コンスタンティノープルを攻撃した。発明者はウルバンというハンガリー人だった。この頃までに、バルカン半島の征服も始めていることを考え合わせると「トルコ国家」と考えるのは少し無理があるのかもしれない。有名な金角湾へのガラタ地区の山越えによる艦隊移送が行われるのはこの時期である。

コンスタンティノープル占領後、メフメト2世はギリシア正教を信仰する住民の慣習と信仰を重んじ、「ローマ帝国の都」再興をビジョンとした都市再建に取り組んだ。占領後30年にはムスリム6割、ギリシア正教アルメニア教徒、ユダヤ教徒約4割となった。

官僚制、常備軍、中央集権制、行政機構を御前会議が束ね、御前会議にはスルタン、大宰相、宰相、国璽尚書、軍人法官が出席していた。軍人法官は裁判をつかさどり、イスラム法などが用いられた。

官僚養成は「デヴシルメ」という制度をとっていた。キリスト教徒の子を強制的に連れて来て養成する方法である・・・ということだが、何でそんな事でうまくいったのかよく解らない。官僚以外には地方支配をする騎士がいた。

軍事組織は2系統あった。トルコ系騎士団とバルカン半島出身者によるカプクル軍団があった。スルタンの奴隷という意味だが、スルタンに服従する、という意味。基本的には特権階級である。戦争捕虜やデヴシルメ制度で養成された人々によって構成され、近衛兵(イェニチェリ)、騎兵、予科軍団があった。大宰相にまでなる者もあった。

徴税権は小額のティマール、中額のゼアメト、高額のハスがあった。これらを騎士(シパーヒー)に付与することで、農村を支配し租税によって得た財源によって騎士は兵員を引き連れて参戦する義務を負った。ティマール制とよぶ。

法律はシャーリア(イスラム法)とカーヌーンと呼ばれる行政法の2系統があり、土地の所属によって適用される法律が変わった。私有地・宅地はシャーリア、国有地・耕地はカーヌーン。公用地や入合地はカーヌーンだけでなく、慣行が適用されることもあった。

ハンガリー領有を巡ってハプスブルク家と対立し、北は1529年にウィーンを包囲した。1538年にはプレヴェザの海戦でヴェネツィア、スペイン連合軍に圧勝し東地中海を支配下に入れた。南はインド洋のポルトガルと争い、紅海貿易の拠点だったイエメンを支配下に入れた(スレイマン1世)。バグダードを占領して東の勢力圏を拡大した。

コーヒーはエチオピア原産と言われる。オスマン帝国がイエメン占領期に飲用の習慣が北上し、1554年にはイスタンブルに世界初のコーヒーハウスができた。100年後にはヴェネツィア、ロンドン、パリなどに広まっていった。郵便局、保険会社の機能を持ち、政治結社の拠点となってフランス革命を引き起こした。

地方名士(アーヤーン)による徴税請負制
17世紀末には軍事的な後退(カルロヴィッツ条約・クロアチア以北喪失)だけでなく、徴税制度だったティマール制が衰退し、替わって徴税請負制(イルティザーム)が敷かれた。大都市での徴税請負権の競売により請負者を決定する方法で、短期契約から終身契約(マーリキャーネ)制に変わった。近年は財政面への貢献が評価されている。
正当に機能すると地方を繁栄に導くこの制度

エジプトの自立と近代化
フランス軍との戦いの中で、軍隊などの近代化が求められるようになったのはイスラム世界も同じであった。1801年フランス軍が撤退した後、エジプト派遣軍の司令官だったムハンマド・アリーが総督に任じられた。エジプトの近代化に乗り出したマムルーク層を一掃して権力を握り自立する。

日本よりも欧米に近かったトルコ地域は、18世紀から近代化の必要に迫られる。第二次ウィーン包囲に失敗した後は、ロシアなどに敗北を重ねて黒海地域での勢力を縮小するなど、対外的な危機の時代であった。セリム3世はフランス式軍制を敷き、1826年にイェニチェリ軍団が廃止、近代軍団が編成される。内政では外国人講師を招聘して学制改革に努めたが、ギリシア独立戦争バルカン半島を喪失する。
 ロシアとの争いは、英仏の支援によってどうにか耐え抜いたが、代償は大きかった。イギリスとの通商条約により大量の軽工業製品が流入。国内産業を破壊した。単字マート改革により伝統の徴税権制度を廃止し、直接税方式に切り替えたが、世界不況期に国家財政は破綻した。この後、当分の間は辛苦の時代が続く。

 しかし、この時期にトルコは西欧化を受け入れ、他のイスラム諸国とは異なった歴史を歩む事になる。学校はイスラム教徒と異教徒がともに学ぶ無償、義務化された初中等教育が整備され、兵役も非ムスリムにも課された。
 トルコ地域は西欧に近く、その事が日本とは異なった近代化の過程を経る事となった。世界大戦の主要国にはならなかったが、植民地に近い厳しい時代を送る事になる。