中国語の宿題のために「君たちはどう生きるか」について再作文

中国語の作文の宿題(自由テーマ)のために、例の映画について書いて見ることにした。言いたいことが複雑なので、まずは日本語の原稿を作ってみたが、せっかく書いたのでブログにアップしておく。

 

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多くの人は自分の子に、世界を俯瞰して主体的に自分の人生を選び取れる子になってほしいと願う。しかし、どうすればそんな子に育つのかは実に難しい問いだ。そもそもほとんどの人は自分自身がそんな立派な人物になっているのかもわからない。少なくも私は自信がない。

 

君たちはどう生きるか」という映画が7月に上映された。映画監督の宮崎駿の作品である。上映にあたり宮崎監督は「同名の古い小説を原作とした」と発表した。吉野源三郎が1937年に書いた小説だ。小説の内容は思春期の高校生の成長物語だが、人としてどうあるべきなのかを鋭く問う。戦時中の発禁処分を受けたが、戦後50年代に復刊した。主な読者は学生である。平易な文章で書かれた小説だが内容はとても深く、十分理解できる人は多くないと言われている。それでもこの本の影響を受けた人は時代をこえてとても多く、私も高校生の時に先生にすすめられて読んだ。私に世界と自分とのつながりを知る機会を与え、どう生きるべきかを考える習慣をくれたのはこの本だ。宮崎監督もインタビューで若いころにこの本の影響を受けたと話しているが、「やはりそうか」と私は思った。

 

「今回の宮崎映画は難しい」「何が言いたいのかわからなかった」という意見をよく聞く。「小説と映画の内容は関係ない」という意見もある。様々な意見や感想はあると思うが、私は小説と映画の両方を見て、小説と映画の関係は私にはすぐに分かった。

 

小説と映画の主人公はどちらも中学生だが、小説の舞台が1930年代の日本であるのに対して、映画の舞台は40年代の半ば戦争の最中である。小説では主人公とおじさんの対話で物語が進むが、映画は主人公が不思議な世界に迷い込む、宮崎映画ならではの冒険活劇である。ストーリーを表面的に見れば両者は全く違う作品だ。だから映画や本のストーリーを楽しむタイプの人には両者の共通点はわかりにくいかもしれない。

 

しかし、自分自身の進む道に少しでも迷ったことがある人ならば、両者が同じテーマであるることにすぐに気づくのではないか。ストーリーや背景の違いはあるがどちらも主人公の成長物語なのだ。宮崎の映画は少年や少女が世界や社会を救う物語が多かったが今回はそうではない。不思議な世界に紛れ込んだ主人公が困難や出来事を乗り越えることによって、成長することに物語の重点が置かれている。自分自身の内面の成長に

 

30年代の日本の若者の悩みは、2020年代の若者のそれとは違う。小説の中の話題をいくつか挙げてみると「貧しい友人との出会い」や「卑怯なふるまいをした自分への許し」、「立派な英雄とは何なのか」などを主人公はおじさんとの。しかし、これらの20年代では違う形をしているだろう。映画の主人公は牧真人というが、彼が冒険に旅立つきっかけをつくったアオサギへの不信感と許容、継母との間のしこりや、亡くなった親との共闘と別れ、残酷に人の魂を食い荒らすペリカンにやむを得ない事情があるという人の業を知ることなど、いずれも現代的な課題に置き換えられている。

 

しかし、二人の主人公は同じように問題に当惑しながらも、自分の力で悩み必死に立ち向かう。

映画の中のラスト、主人公は迷い込んだ不思議な世界で行方不明になった大叔父に出会う。大叔父は主人公に自分の事業を引き継ぐように要求する。現実世界は厳しく、この不思議な世界で一生を終えるのも悪くはない。しかし考えたうえで主人公は大叔父の要求を拒否し、「自分のすることは自分で決める」という道を選んだ。結果的に不思議な世界は崩壊し、主人公は仲間たちと別れて現実世界に帰る。

なぜ主人公がそう考えたのか、この文章を書いていて私はやっと気づいた。

映画の序盤で主人公が小説の「君たちはどう生きるか」を読んでいるシーンがある。小説で吉野は若者に個人と世界とのつながりを示唆したうえで「あなたはどう生きるのか」という主体性を問うている。この小説を読んでいたから映画の主人公は大叔父の誘いを拒否し、自分の世界に替える道を選んだのではないか。

 

ところで、著名な監督が映画の原作にしたために、日本中の書店の店頭にこの古い小説が積み上げられている。難しい内容のこの本はとうとう180万部の売上を達成したそうだ。こんな古い本が爆発的に売れることは非常に珍しい現象である。小説は岩波文庫から出版されているもののほかに、子どもでも読めるように漫画も出ている。この本と映画が、この本を必要としている多くの若者の手に私は願う。