保険証廃止で現場はどんな困難を抱えるのか

 保険証を廃止し、個人番号カード(マイナンバーカード)に統合することを国が推進している。ネット上には感情的な反発と反発への反発が見られるが、保険証を扱う人々の声がほとんど無視されている。私は保険証行政に7年以上関わった実務者の立場から、今回の国の動きを強い危機感を持って注視している。

 保険証廃止に賛成する人々の多くは実際の運用状況を自分の範囲でしか知らない人がほとんどだ。これは、医療などでもしばしば見られる現象で、自分が高齢になり病気になるまでは「高齢者に無駄な医療費が使われている」と信じている。現実的にはすでに無駄な延命などはされていないし、意味もなく医院の待合室にいる高齢者などはいない。健康保険がそのような診療を認めていないからだ。家族が病気にでもならなければ困難を具体的にイメージできる人は多くないのだろう。

 しかし彼らは今回の番号カードへの統合に否定的態度を取る人々を「老害」だと断じてしまっている。「新しい技術と高齢者の問題」だと認識し、こうした高齢者は切り捨てるべきだと信じている。介護や医療が高齢者のみで完結していると思っているのだろうか。

 保険証廃止で最も困るのは無論病人当事者だ。しかし、それ以外に医療や介護施設の職員や介護に従事する家族が国の今回の措置により困難に陥ることになぜ想像が至らないのだろうか。

多くの入所型介護/福祉施設では一般に、入所者の医療機関受診時のために保険証を預かっている。しかし、国の方針によれば多様な重要機能を持つ個人番号カードを施設が預かることになる。

これは個人情報リスクを施設に押し付けることにならないか。介護/福祉施設はそれほど事務的リソースを持っていない。離職率も高く平均賃金も低い。社会の矛盾を押し付けている代表的な業種の一つだ、

 

保険証廃止推進派は「本人がカードを保管すればいい」「本人ができないなら家族がその都度同行すれば良い」などと主張するが、現場を一見すするだけで絵空事だとわかる。自分で管理できる人はすでに自分で所持している。それができない人が別に存在することがなぜ理解できないのか。そもそも家族がその都度同行することが困難だから入所施設があるのだ。介護/福祉事業の基本的なレベルの認識が欠如している。

 

例えばこんなことが起きることになる。

高齢者などに多い指定難病などの県が所得判定する疾病については、県により助成措置がある。県が市町村に所得照会すればよいのだが、わざわざ病人に毎年所得証明と住民票を提出させる仕組みになっている。これは県が住民情報を保有していないことにより発生する問題だ。さらに所得は毎年変わるので1年に1回所得判定が必要になるためだ。

 

仮に東京に住む方の父が諏訪地方の施設に入所しているとしよう。父は自力で手続きはできない。そこで、個人番号カードを預かっている息子がコンビニで両証明を取得し、郵送で手続きすることになる。

 

もし個人番号カードを保険証にしてしまったら何が起きるのか。

上述の通り保険証は施設が預かっている。緊急時に対応できないからである。

カードを施設に預けてしまえば、年に1回の更新の際にこの息子はわざわざ東京から諏訪まで来て、施設に立ち寄って父親の委任状を作成し、市町村役場の窓口で両証明を取得する必要がある。

 

郵送請求する方法もあるが、これも手続きは煩雑である。郵便局で手数料分の定額小為替を買い、役所のHPから申請書をダウンロードして切手を貼った返信用封筒を同封し申請する。自宅にスマホしかなく、PCがない世帯は申請書を郵送してもらわなければならない。

 

 保険証を個人番号カードに統合するのであれば、少なくもこの問題を解決した上でなければならないが、国は一切触れていない。それどころか自らのシンパを使って彼らのような遠隔介護を行っている人々を嘲笑している有様である。

 

 近年、現場や現物を軽視した机上プランニよる国の施策が多い。そしてそれを支持する人が増えつつあるように思う。背景には衰退する日本社会への焦りがあるのだろうが、焦って政府を支持すればするほど国が衰退していくことに気づいてもらいたい。

 

このような単純なレベルの不具合に国も推進派も本当に気づいていないのだろうか。

私はそうは思わない。

彼らは社会の厳しい現実から逃げているのだ。

 

社会の厳しい現実から目を逸らしたい気持ちはわかる。人間なんて誰もそんなものだ。だが、一番厳しい思いをしている人たちを攻撃対象にして逃げようというのは、あまりに非人道的ではないか。

 

なお、余談だが「個人番号に診療記録を紐づけることで健康管理を厳密にできるようになり、医療費の適正化につながる」と主張しているが、これは当たらない。すでに各健保組合が「データヘルス」という事業を10年以上前から実施している。

「診療記録が閲覧できるので、別の病院でも診療を受けやすい」という主張があるが、技術的な知識がないのだろう。カード自体に診療記録が記録されているわけではない。番号はデータベースアクセスのための鍵に過ぎない。そしてデータベースがリアルタイムで更新できると思っているのだろうか?1億人分の診療記録を随時更新できると本当に思っているのだろうか。