私はポピュリストなのだろうか

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ポピュリズム」と言うものにずっと関心を持っている。

若きリーダーの演説に民衆が熱狂する、、と言うシーンは何かの政治ドラマのようでもある。しかし、実際の民主主義にはそのような場面はほとんどない。平等を守るための堅牢な手順と民主主義を担保する煩雑な手続きが延々と続く、非常に退屈なものだ。

 

同書の前半3分の1を読み終えたところで、考えたことをメモしておく。

 

ポピュリズム民族主義とセットのように私は思っていたが、左派にもあり得るという。どちらも共通するのはエリート層(エスタブリッシュメント?)への反発を前面に出し、既存の合意形成プロセスや統治機構を否定して直接的に有権者に支持を求めることで権力を奪う手法のことのようだ。

 

ポピュリズム政党や政治家はレファレンダム(住民投票)を多用することが多い。既存の統治機構そのものを否定し、住民に直接アプローチする手法の帰結はそう言うことになるのだろう。

当然だがレファレンダムを多用すれば、その欠点が社会に牙を剥く。私たちその分野における「ど素人」が考え素人により決定することは、正しい結論が出るとは限らない。為政者は「お前たちの選択だ」と失敗の責任を民衆に取らせれば良いが、いずれ実務の裏付けがない政策は破綻する。

 

同書ではマーガレット・カノヴァンの「デモクラシーの2つの顔」が引用されている(読んだことはないが)。同論文ではデモクラシーには「実務型」と「救済型」があるとされる。救済型が蔑ろにされると、ポピュリズムが台頭する土壌が出来上がると言う。

 

自民党の長期政権に対して「自民党をぶっ壊す」と国民に語りかけるような言葉を放って数々の改革を成し遂げた小泉純一郎氏もポピュリズム的であったし、安倍晋三氏による長期政権に対して激しく批判を浴びせ、金融政策や福祉政策のプロセスを無視する政策を主張することで支持を伸ばしたれいわ新撰組もポピュリスト的な側面を持つと言えるだろう。

だが、やはり昨今では関西圏における大阪維新の会が最もポピュリズム的であると言えるのではないか。長期間にわたって作られてきた民主的なプロセスを頭ごなしに否定し、大阪の有権者に直接訴えることで支持を伸ばしている。

 

グローバル化の進展などを背景に、国民国家の枠組みが揺らいでいる。既成政治や経済金融政策への違和感をもつ人々は、既存の民主的プロセスそのものを疑った。00年代には「改革派首長の時代」として、各地で「住民参画型の行政」がもてはやされた。これらを「ラディカルデモクラシーである」として毛嫌いする人々は根強くいたが、「パブリックコメント」や「首蝶による車座集会」などを開催することで意見を徴する(あるいはそのふりをする)ことでショックを緩和し、登場したNPOや住民組織が力を失うと共に、地方行政は落ち着きを取り戻しつつあるかのように見える。

 

一方で国政では自民党の失政を契機に代わって政権をとった民主党が「埋蔵金があるはずだ」と主張したが見つからず、「事業仕分けだ」と官僚を叩いてみたが政治ショーに終始し、官僚組織が疲弊して政権交代の時代は終わった。

失望した国民は野党を育てるのではなく、世襲政治家の率いる自民党に政権を戻し安心を得ようとした。しかし、その政権は国会を開かず、審議を経ずに重要な案件を独断で決めるという、およそ自民党とは思えない手法を選択した。国会を開いても議論に応じずに詭弁と中傷を繰り返した。「アベノミクス」と言う国の衰退を正面から見据えずに済む安易な政策を主張する同政権を、面白いことに国民は長期間にわたって支持した。

 

第二次安倍政権はあまりに長期間だったため、元々どのように統治が働いていたのか忘れてしまったり、あるいはそもそも知らない世代に代替わりしてしまった。自民党エスタブリッシュ層である清和会などの派閥は力を持てずにいる。その意味で、ポピュリズムという点においては第二次安倍政権は民主党の変種とも言えるのではないか。

 

本書の内容に戻る。

ポピュリズムはデモクラシーの発展を促す面もあれば、脅威として作用する面もあるという。

政治から排除されていた周縁的な集団の政治参加を促進し、新しい政治的、社会的まとまりを作り出すこともある。(「安倍信者」と揶揄される新しい自民党支持者や「ネトウヨ」などはその例だろうか)。社会的決定のプロセスを経済や司法の既存の枠組みに任せずに、人々が責任を持って(実際はそうでもないが)決定を下すことが可能となる。

 

しかしながら、ポピュリズムは多数派原則を重視するあまり、弱者やマイノリティの権利が無視される。敵と味方を峻別する発想が強いことから、政治的な対立や紛争が急進化する。「あんな人たちに負けるわけにはいかないのです!」と一国の長が国民を指差して怒鳴り声を上げるなどありうべからざる珍事だと私は思うが、対立を演出することで自らへの支持を広げることに成功した。

その結果なのか過程なのかは判然としないが、「アベ政治をゆるさない」と言う標語を掲げる野党の主張により妥協と合意の道は断たれ、政党や議会、各業界や司法機関による従来の自民党政治による合意形成プロセスは失われたかのようだ。

 

ポピュリストに対応するにはいくつかの方法があるという。全く相手にしない「孤立化」や「排除」、あるいは正面から全面否定を図り攻撃を図る方法が挙げられる。しかし、ひとたび政権の一翼を担って仕舞えば勢いは弱まる。政権は結果を出さなければならないのであって、調子の良いことを言ってはいられないからである。その意味で安倍晋三氏は言い逃れの天才であり、結果が出なくても出ているかのように振る舞う天才でもあった。

 

維新の会を与党に引き込めば、その力を弱めることはできるかもしれない。けれどもお墨付きを与える側面もあり、安倍氏亡き後に今後自民党が力を失っても連立を求めない方が得策なのだろうか。

 

読書を続ける。