私が経済を中心に社会を見るということ

私は時々経済やお金の動きを軸に社会を見ようとしている。

人の善意や悪意を信じないわけではないが、基本的には利益をもたらす方により多くの人が動くと思うからだ。

とは言え、大学に入るまでは典型的な書生型の発想法だった。社会的に正しいとされる方向に「なぜ人が動かないのか」「こうすべきなのに、なぜ人はそうしないのか」と鬱屈を溜め込んでいたように思う。

その私が考えを変えるきっかけになったのは、大学受験の失敗だ。大学に合格はしたが満足のいくレベルの大学ではなかった。その受験を失敗と捉え、その原因が自分の欲求のコントロール失敗によるものであることに気が付いた時、「人は主に欲求によって動くものだったのか」と今更のように気が付いたのだと思う。

 

大学時代には幾人かの留学生と交流を持った。特に中国からの留学生が多い時代だった。ところが中国に関する本を読もうと書店に行けば、中国を侮蔑する内容の書籍が平積みになっていた時代だった。中国の改革開放政策が始まっており、急激な経済成長に可能性を見出したが、当時の中国の政策と人材の不備でひどい目にあう経営者が大勢いた。一方で新しいものへの激しいアレルギーを示す人が一定数いて、それらがカクテルのようになって反中本が飛ぶように売れていた。

 

当時、朝日的な「あるべき論」に嫌気がさしていた私は、背伸びをしてわかりもしないのに日経新聞を読むようにしていた。株式の動きや、聞いたこともない企業の新しい技術が社会を動かしていることに気づいた。政治が社会を動かしているという視野しかなかった私にはそれはとても新鮮だった。日経新聞のいうことは神の言葉であるかのように隅々まで夢中で読んだのを覚えている。私が経済や市場、株式や企業の営利行動が社会を動かしていると考えている基礎的な素養は、この時代に作られた。

 

しかし、日経新聞にもともすれば反中的な記事があった。これだけは私の中の何かが引っかかり、素直に入ってこなかった。何かトリックがあるのではないか。そもそも留学に来ている学生たちの話とは、ずいぶんかけ離れているような気がした。

 

諸事情あって大学在学中に中国へ留学した私は、当初の机上の「経済論」が全く的外れではないけれども本質ではないことに気づくことになった。

幸運なことに同じクラスに大手商社を退職して中国に留学していた方がいた。Fさんとしておく。しばしば留学生食堂で食事をするときなどにお話をする機会に恵まれた。主な話題はその時々に街の中で見たものや、先生とのおしゃべりで感じた中国社会の動きについてだった。

Fさんは私の、今から考えれば赤面するしかないような初歩的な質問に真摯に答えてくださった。たった1年間だけだったが、私の人生を通じて最も大きなトレーニングだったかもしれない。

留学の終わりにFさんが若い日本人の学生を食事に誘ってくれた。その時のやり取りの一部は今よく覚えている。

 

私は1年間かけてずっと考えていたことを口にしてみた。

「これからの時代は中国だ、と出国する前によく耳にしました。けれども、少なくも90年代後半の現時点においては生産拠点としては有望かもしれませんが、消費市場としてはそうでもないように感じます。」

Fさんははにっこり笑って「どうしてそう思うの?」とおっしゃった。

私は少しあせりながら「モノが増えても人の生活はすぐには変わらないのではないかと思います。消費文化が作られるためにはもう少し時間がかかると思います。人の心はお金だけでは変わりにくいものなのではないでしょうか。」

 

Fさんは「うーん」と言ったまま少し遠くを見るような目をし、しばらく考え込んでからこう言った。

「確かにその通りだと僕も思うよ。よくそこまで考えたね。就職の面接で言ってみてはどうかな」

 

初めて学校の先生以外の大人に真面目に話を聞いてもらえたのは、そのときだったと思う。

 

あれ以来、私は経済を中心に社会を見つつも、経済だけで社会が動かないと考えるようになった。法と正義が社会を突き動かす時もあれば、如何しようも無い残忍さと凶暴さが人々を転覆させることがあることがあることを私は中国で学んだ。

帰国後は以前ほどは日経新聞を読まなくなった。

それは就職活動で非常に不利に働いたが、結果的には良かったと思っている。

 

経済ニュースを見るたびにあの時のFさんが、何を見ていたのかを時々思い出す。