未来と過去とをつなぐ、なくてはならないもの

 

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ミヒャエル・エンデの「モモ」を再読した。以前読んだのは小学校の頃だっただろうか?どんな話だったかもよく覚えていないくらい昔だ。ただ、その時はただの冒険物語の1つとしか理解できなかったと思う。

今となってみれば様々な暗喩に気づくことができる。

 

高校の頃、いわゆる思春期の危機を乗り越える中で考えていたことがある。

私はどこから来てどこへ行こうとしているのか。

自分とは何者であるのか。生きる時も死ぬ時も結局は一人であって、その孤独と私はずっと向き合っていかなければならないのか。

考えても仕方のない問いを果てし無く考え続けていた。

 

「どこにもない家」から帰ってきたモモはとても孤独だった。

変わってしまった友達や街の人たちに悲しみ、灰色の男たちに怯えていた。けれども、友達のために戦うことを決意した時、恐怖が消えて勇気を持つことができた。

この部分はとても共感できる。

 

私の果てしない問いについて結局出した答えは「誰かのために生きること」ということだった。「誰かの役に立ちたい」と考えすぎてバランスを崩したこともあるが、その考え方は間違っていないと思う。昔から誰かが理不尽な目にあうことが好きではなかった。理不尽さと戦う人に手を貸すことができれば、私は私でいられるのではないか。

外国語を学び、貿易や外資の仕事ではなく市町村職員に転職した。日本語教室のボランティアも始めた。本当はもっとやりたいことがあるが、体がいくつあっても足りない。

 

小さな頃は、大人になった私はもっと大きな仕事をしていると思っていた。

それに比べ、実現した夢は随分小さくなったものだと時々思う。

けれども1人の人の持つ世界の無限の広さを信じて、私を頼ってくれるその人のために可能な限り力を尽くそうと今は考えている。

 

時の源で咲いては散り、散っては生まれる花は人の命の暗喩なのだろう。

命とは時そのものだ。

私は日々生まれ変わり、いつか私が私でなくなる時が来る。

その時には別の場所で別の美しい花が咲いてくれたら、それはとても嬉しいことだと思う。