あの日から四半世紀

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諸事情あったお借りしたこの本を読んでいる。

1995年の1月17日だから、もう25年以上が経っている。

30歳くらいまでの人は記憶もないだろう。歴史の教科書に載るようになってしまった。

奇妙な使命感に突き動かされて田中氏はバイクを調達し、物資の輸送のボランティアを始める。持って行ってもお礼を言われなかったことに当惑したり、交通規制が混乱して歩道をバイクで走っても警察官に黙認されたり、物資の仕分け作業が誰のためにやっているのかわからなかったり、倒壊した他人の家屋の中で物を漁っている人に出くわしたりと、生々しい経験が綴られている。

校庭でテント生活をする人たちに、物資配布の情報が届かないことがあること。数日すると生理用品や下着類の需要が出てくること。口コミが主力の情報流通にはデマのリスクがあること。大規模な災害時は避難所に収容しきれず、テントや無事な家などで避難生活をする人がかなりの数に上ること。

これらは今では防災士の試験などでも出る内容だ。

 

 災害支援活動は、実際に行ってみなければわからない様々な気づきがある。何をどのようにすべきかは、実際に被災地で話してみないとわからない。それがボランティアセンターによるコーディネートで組織化されるまで、10年以上に年月が必要だった。

私は災害ボランティアは平成30年の広島水害の泥のかき出ししかないが、側溝に溜まった泥は人力以外で出す方法がないことや、家に泥が入り込むと瞬く間に傷んでいくことは実際にやってみて初めてわかった。何よりボランティア終了後しばらくは唐突に被災者の方のことを思い出して涙が出たりして当惑した。参加したボランテイア団体の方々によれば、一種のPTSDなのだそうだ。

 

津波で流された311と異なり、阪神淡路は火災と圧壊だった。この本で数少ない記憶が蘇った。

実は私はリアルタイムで映像ではみていない。ちょうど中国に留学中で、テレビもなかったことからこれほど大規模な震災があったことすら意識の中になかった。「関西方面で地震があったらしい」ということを耳にし、当該地区から留学に来ていた学生たちが廊下で深刻に話をしているのを見かけた。彼らが1人また1人と学期が終わるのを待たずに帰国して行ったことしか記憶にない。

留学が終わり、香港へ移動した時に久しぶりに買った英字誌の表紙に大きく「Kobe」と書いてあった。めちゃくちゃに破壊された市街地と、倒壊した高速道路の写真が表紙に使われていた。宿に持ち帰って同室のパキスタン人とイギリス人(だったと思う)の旅行者たちに「Kobe」は「神戸」のことであり、私の国で起きた大災害であることを知ったような有様だった。

今でも思い出すのは、その時確かに私は迷ったことだ。

留学を終えたら復学までの3ヶ月間、中国文化の東南アジアへの展開をみるために、東南アジア諸国の中華街や中国人居住地区をみて回ろうとずっと計画していた。けれども、「旅行を中止し、直ちに帰国して神戸でボランティアに従事すべきではないか」という強い思いに襲われた。

結局私は旅行の計画を実行した。留学の経験は人生で1度だけであり、東南アジア行で得られる知識も重要だと考えたからだが、もう少し私に行動力と勇気があれば、自分の人生をぶった切ってでも神戸に駆けつけただろう。現地在住の中国人々ののために、力になれたかもしれない。

その後悔は今も残っている。これまで参加してきた様々なボランティアへの行動力の源泉は、この後悔なのかもしれない。