神戸震災日記読了

週末は日本語ボランティアなどでバタバタしたが、仕事の繁忙期前になんとか読み終えることができた。(こんな薄い本を読み終えるのに何日もかかってしまった。学生の頃の私が知ったら信じられないだろう)

 

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備忘録的にいくつか書き留めておきたい。

大手流通スーパーの動きの鈍さやメディアの取材手法、兵庫県庁への苛立ちを露わにする田中氏。神戸市長についての手紙形式の論評では、日常へ復帰していく被災地住民の辛さが書かれている。311の時と違って、被災地が狭く周辺の街には日常が広がっていた。

復興を急ぐ神戸市長への手紙に、民主主義とは愚直に話し合いを重ねてしかるのちに衆議に決するべきだとの批判を書いている。311の時にはこの反省は活かせたのだろうか。復興が進まない状況に声を荒げたり、強引に進めて失敗したケースもあった。

公の復興が済んでも私の復興が進まなければ意味がない、という指摘は311の時にも聞いておきたかった。鉄道や道路が通るとそのニュースが流れ、まるで何もかもが終わったかのような錯覚に陥る。「少しは落ち着いたか」と問われると田中氏はそのたびに腹をたてる。

 

海外からの支援も多く寄せられた。隣国の韓国が最も多く、次いで米国。まさかその二十年後にヘイトスピーチでネットが溢れかえるとは、当時は思いもしなかった。神戸の被災により在外公館の多くが大阪へ移転してしまった。

 

本の半ばにボランティアの活躍が書かれている。マンション管理組合で次々と名乗り出る専門職の市民。専門性を持たない人が物資の運搬役を申し出る。学生寮では学生が主体となって救出活動をし、地域の住民を寮に受け入れた。廊下に寝かせておくのは忍びないとして、しばらく学校再開の見通しがないことがわかると帰省できる学生は帰省して部屋を空けた。

どんな災害の時も、自分が何ができるかを考えて主体的に行動する人たちが現れる。近年は高齢化によりボランティアの数は激減しているが、他人の困難に立ち上がった人々のことを忘れてはいけないと思う。

 

避難所に指定されていない公園などで避難生活をした人々に、神戸では物資が配給されなかった。避難所が避難者支援拠点としての役割を持たず、所内にいる人だけを避難者と認めるという判断がされたためだった。結果として市民は分断され、公園避難組は行政に抜きがたい不信感を持つようになってしまう。公園にプレハブを置いて法令をクリアし、長期避難に備えた人々に通告されたのは、公園に正規の仮設住宅を建てるという一方的な知らせだった。公園組は利用できないという。

 

ボランティアとオウム真理教の若者を同列に考える意見に田中氏は反論する。オウムは自分だけが助かりたいと考えた人々だが、ボランティアは決してそうではないと。ちょうど地下鉄サリン事件のあった時期だった。

 

「企業市民」という言葉をこの時期よく耳にしたのを覚えている。企業が被災者に寄付をする活動が一般的に知られるようになったのはこの震災からではないか。田中氏が寄付を受けて被災者に配ろうとしたところ、税務上田中氏への贈与になってしまう事態を企業の損金扱いにできる制度が急遽作られた。政治がよい仕事をしていたと言える。

神戸市内で1000箇所も下水管が破裂し、応急修理後も悪臭など被害が起きた。311では下水管ごと津波にえぐり取られた現場を見たが、大規模な震災では下水設備が被害を受ける。マンホールトイレも万能ではないか。

 

震災商法という言葉が当時流行った。郵政省が被災者の所在地を知らせるために作った名簿を利用した業者がいた。

 

ある朝鮮人学校に対して起きた差別が記録されている。学校には多くの近隣の日本国籍の住民が避難した。にも関わらず抗議するまで物資の配分を役所は渋った。あれから朝鮮学校への対応はより排他的になっている。近い将来被災した時に行政がどうするのか、注視していた方が良さそうだ。

 

震災に便乗した解雇、自販機のセンサー盗難、海運会社の神戸港離れ、尼崎の閘門崩壊による浸水の危機などが記録されている。震災時に日本にいなかったこともあり、震災関係のニュースを私はよく追いかけていなかった。

 

打算的に支援を行った「企業市民」が、復興後に冷遇されている例が書かれていた。支援は「本当に必要なものを考え抜く」ことが大切なのだろう。