縦割り行政を甘く見過ぎていた

 現在人口が増え続けている市町村もいずれは人口増の寿命を迎え、高齢者比率の増加と労働者人口の比率的、絶対数的減少の場面を迎えることになる。すでにその局面に入っている自治体は今後高騰する福祉費用の捻出に備え、行政関係の施設を大幅に減らし、福祉に関係ない施策を減らすことに取り組まなければならない。そして、将来の人口安定期に向けて教育や保育などの施策を改善しなければならない。

 長期的かつ、広い視野で自治体の行く末を見れば、それは自明だ。

その「長期的かつ広い視野」で町の行く末や展開の方向性を見ることさえできれば、ビジョンは共有され、戦術レベルでの行動はいずれ一致するものだと私は思っていた。

 

だから行政への転職以来、行政しかできないことに仕事を絞るため、民間ができることはできるだけ民間に移し、利害得失上自然に成長できるように人と人とを繋げ、コミュニティを再生することに全力を尽くしてきた。仕事が終わっても、NPOや地区の活動などで、そのことを意識して活動してきた。

そして行政しかできない分野の部署についたときはアイディアを絞って全力を尽くそうと考えてきた。優れたアイディアは取り入れ、新しいノウハウを作り、マニュアルを作り、その行動指針の大切さを同僚に説明し、引き継いで来た。

同様に考えている同僚が少数ながらいることに気がついた。彼らも同じことを考えているように思える。

このまま全力を尽くし続ければ自然と町は良くなっていくと私は考えていた。

 

だが、どうやらそれは間違っていたらしい。

長期的、あるいは広い視野でものを見ることができない人がいることは想像していた。

しかし、思考停止あるいは意図的な悪意を持って拒否する人がこんなにも沢山いるとは私は想像していなかった。

 

私の町は箱物をこの10年で沢山抱え込むことになった。

新築し、古い建物を行政が買い取った。いずれも「まちづくり」のために必要であると頭の良い人が理由づけしてある。だからどう見ても無謀な予算なのに、その予算案は次々と議会を通過してしまった。

この維持やメンテナンスに今後多くの人が割かれるだろう。この施策を主導したり、施策に異議を唱えなかった人たちは少しおかしいのではないか。ずっと私はそう考えてきた。

 

半年間休職している間、そのことをずっと考えていた。

行政に助けを求める人の声に耳を塞ぎ、あるいは手を振り払ってまで、なぜその箱物が必要だと考えたのか。行政しかできない福祉事業に人員や予算を配分せず、なぜそんなものに予算を振って良いと考えるのだろう。

都合の良い自己責任論が流行っているせいなのだろうか。

 

少し違うと思う。

箱物を建設することで、人は名誉欲をくすぐられる。ビジュアル的にも成果を強調しやすい。そもそも、町の貧困率が他市町村に比べて高いことを知らず、知っていてもその深刻さが理解できない。そのため、勉強すらしない。

それを改善することが可能であることがわからない。そのために人手や予算が必要であり、それをすることで少子高齢化のダメージを最低限にすることができ、20年後の人口安定期に社会経済の再生に資することもわからない。

 

そういう人物たちが有権者の多くを占め、そういう人物を選挙で選出している。

だから箱物行政が止まらないのではないか、とふと思いついた。

もうどうにもならないんじゃないか。