アイデンティティの揺らぎ

長い記事だが、アイデンティティの揺らぎというポイントに興味をそそられて読んでみた。

 

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温又柔さんの小説『真ん中の子どもたち』とエッセイ『「国語」から旅立って』について、安田菜津紀さんによる温さんへのインタビュー記事だ。

日常の何気ない言葉の中に、有形無形の圧力やら棘やら投石を感じている人々がいる。

そのことを知ってはいるが、改めて聞くと言葉もない。自分も無意識のうちに、彼らに石を投げつけているのだろうか。

 

日本語から中国語(標準語/マンダリン)に標準語が変わった台湾。台湾語になったことはこの100年間、1度もない。

日本で生まれ、日本で育ち、外国人と一度も交流せずに暮らしてきた「日本人」からすれば混沌とした環境に見えるだろう。

その中で温さんはアイデンティティを確立していく。その過程を、言葉を巡るエピソードで語ってくれているのだろうか。言葉がもっとも顕著に出るのだろうか。

「母親が台湾人なのに」中国語ができない自分に戸惑い、悩む過程は興味深い。

中国語ができないことを、大陸の中国人に皮肉られて自分に欠陥があるかのように感じてしまう温さん。中国語の学びが徐々に重荷になっていく。

日本語をまるで逃げ場のようにしているのに、日本人とは認められない。

 

 「こうやって“普通”じゃない自分、日本人じゃない自分を肯定的に見てくれていた大人や先生もいたんです。そんな人たちの記憶を自分の中で膨らませて書くことで、読んでくれた方々が“そういう大人でいよう”と思えるヒントになるといいな、という思いも込めています」。

ずっとそんな大人でありたいと思ってきた。

自分はうまく振る舞えているだろうか。

図書館でこの本を見かけたから、読んでみようと思う。 

 

台湾で暮らしてきた人々は、独裁がどれほど恐ろしいかを身を持って知っているし、だからこそ権力者に自分たちの権利を占有させない、という意識が強くあるのかもしれません。

 台湾がなぜ急速に変わっているのか、これが答えなんじゃないかと個人的に思っている。日本は独裁で深刻に奪われた経験がない。大政翼賛会の時代にも、別に日本語も日本人であるということも奪われたわけではなかった。

今、台湾から学ぶことができることが沢山ある。けれども、その実態を直視せずにかつての「遅れている」台湾観の中で夢を見ていたい人々がとても多い。

女性総統を誕生させたのは欧米の遠くの国ではない。アジアの隣人だ。

 

台湾人であるというだけで、私も政治や社会に対して発言をすると、しょっちゅう“反日”って言われる。“日本から出ていけ”とも。まるで日本にいていいのは、”純粋な日本人”や、そんな日本人や日本という国家に対して忠誠を誓う人だけだぞ、と言わんばかりに

 

そんな日本人だったら、私は日本人でなくても良い。

いや、むしろ全力でお断りしたい。