「イスラム国」呼称問題

ツイッターに連投した内容を捕捉して書き残す。冗長になったのは、読み手を想定していないからである。読んでしまった方、申し訳ない。

はてなのホットエントリに「この呼称は妥当である」との意見が出た。賛成の立場の意見を書いて下さった方に感謝したいが、イスラム教の教義と無関係でない=この呼称でよい、というのは妥当だろうか?イスラム教徒全体が差別を受忍すべきと言うには極端すぎないか?
わかりやすい表現で「誤解を招かない表現をする」ことが難しいのはわかる。しかし、「イスラム国」と「イスラム教」の混同は、元はと言えばイスラムへの日本人の無理解が原因なのだ。短絡的に「イスラム国=イスラム教徒」と考える人を減らす動きも必要なのかもしれない。
しかし、ひとつの呼称を作ったことで、本来は一つでない人々を同一視させる現象は、これまでも多数存在した。例えば昔、「中国人窃盗団」という言葉がワイドショーや週刊誌を飾ったことがある。
当たり前だが全ての中国人が窃盗団ではない。しかし、あの言葉は「中国人=窃盗団」という偏見を引き起こし、大勢の中国人住民が迷惑した。私が住んでいたアパートの近くのパチンコ屋にも、入り口に「中国人立ち入り禁止」という張り紙が貼られていたのを今も覚えている。
確かに、窃盗を繰り返していたグループの実行犯が中国系だったことは事実だ。しかし、日本人だって大勢関わっていた。それなのに「中国」を強調したのは何故だったのだろう。確かにそれまでの窃盗団とはやり口が違った。それを中国文化のせいにまでする自称評論家までいたが、本当にそれが原因なのだろうか。
たとえその因果関係が証明できたからと言って、一部の中国人の行為で在住中国人全体の印象を悪くして良かったのだろうか。私の知る限り、著名なジャーナリスト達はあの現象を批判しようとせず、それどころか荷担していた連中までいた。
あの呼称が流行ったことでメディアは大儲けした。マスコミが刷り込んだ「中国人=怪しい」という先入観の上に、自称「中国通評論家」が様々な「事実」を書き散らし、多くの本や雑誌を売ったのだ。まるで昨今の嫌韓本のごとく、その手の本で一時日本の本屋に山積みになった。
あの反省がされなかったから、今嫌韓本みたいな日本人が自らを貶めるような本が売れているのだと私は思う。

似たような現象は他にもある。
「荒れる若者」という表現があった。私達の世代を指して、そう読んでいた時代がある。大半の若者はそうではないのに、一部の若者犯罪を取り上げ、さも全体であるかのような印象を与えていた。この問題とどう違うのだろう。
 「荒れる若者」という表現で、マスコミはやはり一儲けした。わかりやすい表現に体臭も飛びついた。ちょっとした非行に「ああ、ほら、最近の荒れる若者だ」と白眼視された経験のある人もいるのではないか。それでも、あの呼称によって若者の抱えていた問題に注意を引くことは出来た。教育現場は余計な介入を招いて迷惑したかもしれないが「社会全体で若者を育てる」という認識は、あの頃からのものではないかと私は思う。

しかし「中国人窃盗団」や「イスラム国」呼称はどうか。安易なカテゴライズで問題の本質を歪めているのではないか。
「中国人窃盗団」呼称が流行っていた時代、中国は高度経済成長の大混乱の中にあった。混乱の中で外国に渡り、荒稼ぎしなければならない人たちがいた。商習慣もまだ安定していない時代だった。あの頃の中国庶民のつらさ、苦しさは、実際に現地を見た人でなければわからないだろう。
もし、当時のメディア関係者が「中国社会独自の背景があったから、「中国人」と付けることは正当だ」と言ったら、私は呆れるだろう。あの本質は貧困問題なのだ。そして経済や社会の発展段階の問題でもある。歴史のボタンのかける順序が日本と違っただけだった。(第一、日本にだってかつてそう言う時代があった。)

イスラム国」という呼称も同じではないか。「イスラム教の教えに異教徒排斥の原理がある」「社会背景を原因とした事件であるのだから「イスラム」の名を使用して良い」などという主張は、やはり私はおかしいと思う。
 中国は経済成長を遂げつつあり、完全解消への道のりは遠いが、当時の貧困問題は若干改善方向に向かっている。幸運なことに中国のイメージは変わり「窃盗団」のイメージは払拭されつつある。そもそも「窃盗」は犯罪の名称であり、日中両国であたるべき問題と捉えることも出来たし、結局実際はそうなった。
しかし「イスラム国」は地域・地方の名前であるような錯覚に陥りやすい。イスラム教が続く限り、テロリストが存在するかのようだ。シリアやイラクの貧困問題の解決は、このままだと遠い未来の話だろう。「テロリスト」のイメージは当分払拭されるとは思えない。
今回の事案の背後には、宗教観の対立があるかもいれない。しかし、根本は貧困問題だと思うがどうか。イラクとシリアの人々と私達の共通の敵は貧困であって、「勝利」とはテロに従事した人を法廷に立たせることではなく、彼らをそこへ駆り立てた「貧困の撲滅」なのだと私は思う。
「法廷に立たせろ」はとても楽な戦いだ。一方で「貧困の撲滅」は非常に困難な戦いだ。しかし、根本から目をそらして易きに流れてはいけないだろう。 

「一部の人の事を全体であるように錯覚させるのは、迷惑だからやめよう」という、当たり前のことを私は言っているに過ぎない。マスコミは早くフツーのイスラム教徒が迷惑しない別の呼称を考えて欲しい。最初に考えた人はヒーローになれるだろう。
 ともかく、酒場談義で「イスラムってのは本当におっかないね」と語られているのを放置するのは、日本の恥だと思う。