渓谷トレッキング

2014年12月28日

2014年12月28日から翌1月4日まで中国西南部を旅してきたのでその記録を残す。
今回の旅程は12月28日に中部国際空港から上海浦東空港へ。

<上海へ>
名古屋空港までは同行する友人夫妻の車で。朝4時発、外はまだ暗く寒い。自分の車を友人の家に停める。帰国後にバッテリーが上がっていないか心配。
空港着。私の飛行機の方が後なので、同行者と別れ自分のチェックインカウンターへ。まだ始まっていないと思ってのんびりしていたら、行列ができていた。最後尾がわからずウロウロしてしまう。
1時間ちかく待ってチェックイン。ネットでもできるらしいが、やっぱりこの式の方がいい。Eチケットは携帯を見せたらOKだった。帰りに電池が切れていないことをいのる。

出国手続きのところで、外国人の方がカードの書き方をわからず困っていた。手伝うことにする。てっきり中国人だと思い、張り切って中国語で教えてあげたらベトナム人だった。本当にごめん。英語もあまりできないようで、国に着くまで心配だ。

今回の旅では中国人の友人夫妻に宿の手配や路線へのアドバイス、中国国内線のエアチケット購入までお願いしてしまった。だから私は行くだけだが、役所関係の手続きが苦手な私には、国際線搭乗手続きでいつもおろおろしてしまう。
友人夫妻との連絡用にと、中国版LINEみたいなアプリをインストールしたら、思いがけず長く会っていない中国の友人が追加してくれた。電話番号から登録してくれたのだろうが、確信が持てなくて別の共通の友人にさんにメール。間違いないらしいので連絡したら話が弾む。彼女と最後にあったのは5,6年前。彼女は20代だったはずだが、写真では全然変わっていないので人違いだと思ってしまった残念ながら飛行機の出発時刻になったので、後刻よ連絡を約し、携帯を機内モードに変えた。

機材はbowing737-800。私は小型機が好きだ。乗り心地が楽しみだったが、機体はおもったより揺れなかった。食事は鶏肉か牛肉。鶏肉を選んだ。パスポートを手に持っていたからか、英語で聞かれたので中国語で答えた。うまく通じずに嫌な予感がよぎる。上海に着いたら宿の予約確認電話をしなければならない。
名古屋上空では南アルプスが見えたが、あとは雲海の上だった。暇なのでローマ人の物語ユリウスカエサルルビコン以後を読む。若い頃、ひとりでの旅行中は歴史物の文庫本を持ち歩き読むことにしていたので、その習慣を思い出して持ってきた。
ちなみにこの小説は読み始めて5年以上が経つが、途中まで四では読み返しているのでいっこうに進まない。読み終わるのは多分無理だろう。学生の頃ならできたかもしれない。

今回は上海で成都行きに乗換える。予定通り上海に着いてくれないと乗り継ぎが間に合わないかもしれないという不安を持っていたが、飛行機はやはり遅れた。

荷物を減らして預けない方針にして正解だった。荷物を待つ人を尻目に脱兎のごとく待合わせ場所へ。無事友人夫妻と合流できた。まだ人が降りてくる前だったせいか、両替もスムーズにできた。四万替えて1900元になったのはがっかりだったが、今回は忘れずに「小銭をくれ」と言ったところ、気持ちよく変えてくれた。20年前、頼んだらとてもめんどくさそうに対応されたのとは別の国のようだ。首尾良く10元札を手に入れることに成功し、乗り継ぎ手続きへ向かう。
上海は暑かった。気温20度。今回は高山トレッキングを予定しているので、冬用重装備をしてきたが、低地でのことを考えていなかった。たまらず服を脱いだ。

今日中に上海から成都へ飛び、今夜は成都宿泊だ。中国国内でも使えるiPhoneを中国人友人(夫)から借りてあったので、早速電話をしてみる。ところが予約がないという。失敗した。日本人の名前をどう伝えればよいかわからない。何度も確認を促すが、「ない」とのこと。友人にメールをし、救援を依頼して飛行機に乗る。

乗機して自分の席に行くと、若い男性が座っている。おかしいな、という顏をしていると慌ててどいてくれた。中国は相変わらずだが、抗議しなくてちゃんとどいてくれる時代になった。

成都着>
成都へは18:10につく予定だったが、これも遅れた。中国国内線は良く遅れると言うが、今回は正月前で混んでいることもあるのだろう。
成都からはリムジンバスを使う。当初タクシーの予定だったが、到着場所からホテルまでが歩けそうなので使用することとした。

成都は都会だったが、上海のような未来都市感はない。東京よりも古い建造物が良く残り、中国らしさを残している良い街だと思う。大気汚染は上海ほどではない。地下鉄を作っている最中で、街中に土煙が上がっているのには閉口したが。
バス停から宿までを歩く。次の移動先香格里拉へも飛行機を使うので、道順を覚えながらの2kmほどの散歩である。
宿について確認すると、やはり名前がないという。おかしいと思って予約メールを見せると、同じチェーンホテル(漢庭)ではあるが場所が違うという。
フロントの女性の説明のとおりに行ってみたが、その場所にはなかった。彼女が説明中にどんどん横から別の中国人宿泊客が横入りして様々な質問を浴びせてくるので、説明をまともに出来なかったのだろう。あちこちで聞き回ってようやく宿にたどり着いた。

その日は「錦里」を見る。古い町並みが残っている、というふれこみだったが、そこに商業店舗を大量に入れて観光地化した中国版木曽のようなところだ。
こうした商業化、観光地化には批判があるが、建物は使用しなければ痛んでしまうし、維持費を捻出できない。保存が原則ではあるが維持運用を視野に入れなければ建物はもたない。
市街地の再生の活動に関わっていたときに、保存を主張する郷土史家のグループと、建物の運用を主張する若手商業者の議論を聞いていて思ったことだが、やはり建物は展示物ではなく使用する道具なのだと私は思う。全国で保存に失敗する例(行政が補助金100%をつっこんで維持しているのは失敗例と考えるべきだ)が相次いでいるのは、運用を考えていないからだ。

ホテル探しに手間取り、夕飯が遅くなった。食堂を探してしばし宿の近くをうろうろする。今回の同行者のM夫妻とは昨年末も中国旅行をご一緒したが、奥様の見立てはいつも当たりだ。今回は麺を主に扱う店。ワンタン、麺、水餃子。私はお酒は遠慮した。

つい数時間前までは日本にいた。あっという間に日本語が通じない世界。当たり前のことが当たり前に通じない世界。
それでも、中国は発展した。20年前に比べれば状況は懸絶していると言って良い。ホテルはきれいだった。

12月29日(2日目)
起床しホテルで朝食。その後目的地の「三星堆博物館」に向かう。旅行前のネット情報と地球の歩き方によると、成都市の隣の広漢市にあるという。タクシーで行く予定をしていた。
ホテルの前のタクシーを捕まえる。念のため値段を聞くと「少なくも300元はすると思うけど、いいのか?」と親切に言ってくれた。もうひとりのタクシーの運転手は「200元はかかると思う」とのこと。エライ差だが、高速代が入っているようだ。高額になることは間違いなさそうだ。
同行者の2人と相談し、バスで行くこととする。ホテルの従業員に行き方を聞いたところ、バスターミナルまで行けば広漢市行きのバスがある、とのこと。四苦八苦しながら教えてもらったバスターミナルまで行ったところ、広漢市行きのバスはここのバスターミナルではないとのこと。でかい市なので、バスターミナルがいくつもあるらしい。
 ホテルの従業員を悪く言うわけでは決してないが、中国の大都市のバス路線は大変複雑だ。例えば東京都内で鉄道を使わずにバスを乗り継いで動くと思えば想像しやすいだろう。
普通の人は自分が普段乗る路線以外はわからない。まだ地下鉄が1路線しかない成都では、全てがバスに頼っているのだ。(街中で地下鉄の建設をしていたので、数年後には一変しているだろう)
ちょうどそのバスターミナルにあったインフォメーションセンターで聞いてみると明確な答えが返ってきた。対応してくれた職員は外国人になれているのだろう。私の中国語のイントネーションと服装から一目で日本人とわかったようだ。そして「日本人には漢字を書けば理解できる」という知識を持っていた。説明も端的で分かりやすく、日本の田舎の観光業者よりよほど優秀だった。
市の北北西にある昭覚寺のバスターミナルから広漢市への高速バスが出ていた。路線バスを乗り継いで昭覚寺ターミナルまでたどり着く直前に、私営バスが路肩に止まって客引きをしているのが見えた。この分ならターミナルにもあるだろう、と一安心。ターミナルにはバス路線がたくさんあったが、無事切符を買うことが出来て出発できた。
高速経由で40分とのことだったが、実際は1時間近くかかった。なるほど、これだけ高速に乗ればタクシーは高かっただろう。良心的なタクシードライバーに感謝。昔中国の地方都市と言えば「ぼったくりタクシーに気をつけろ」だったのだが、時代は変わりつつあるのだと感じた。
広漢に到着後、博物館行きのバスを探す。「三星堆」と書かれたプレートを掲出したバスがすぐに見つかった。車掌さんに同行者のご主人が聞いて下さったところ「行くよ」とのこと。この手のバスには時刻表がないので、ある程度客が乗らないと出発しないのだが、今回は乗ったところすぐに出発した。
バスは市街を抜けひたすら郊外を目指した。とうとうお客さんが3人になってしまった。車掌さんは私達の行き先を知っているので、何も言わないと言うことはこのまま乗っていても良いのだろう、と勝手に想像して外を眺める。

現代中国の農村風景が広がっている。

農村と都市の格差、というが、この辺りの農村はそれなりに豊かに見える。30年前に司馬遼太郎が書いたエッセイ集にも同じ内容のことがあった。この辺りまで来ると農家の方が乗車してくる。手を挙げてバスを止め、二言三言料金や降りる場所を聞くと出発、という具合である。
あるところまで来ると急にバスが止まった。「ここで降りて」とのこと。指さす方向を見ると博物館っぽい建物が見える。前で止まってくれたらしい。礼を言って博物館に向かった。
この時点で既に1時過ぎ。空腹を覚えないでもなかったが、周囲に飲食店があるとも思えない。夜の香格里拉行きフライトまでは時間もあるので、多分大丈夫だろう・・・と考えて博物館に向かう。

こんな寒い平日の昼間に客などいるはずは無かろう、とおもっていたらそうでもなかった。研究者とおぼしき方々が数人、熱心解説に見入っていた。中国の博物館はたいてい写真撮影禁止ではない。職員に聞いたが「何でそんなことを聞くのかわからない」みたいな顔をされた。というわけで写真は勝手にとらせていただいた(禁止しているところもあるので注意)。

三星堆遺跡とは、80年代に中国で発見された遺跡で、紀元前2000年頃に四川省のこの盆地で栄えた文明の存在を示唆する出土物と祭祀跡で構成される。鉄器の前、青銅器の時代だ。
世界ではヒッタイトの時代、バビロン第1王朝の時代、中国の夏王朝の時代。日本では縄文時代後期だ。
巨大な青銅器の仮面には、金箔が貼られていたという。大型の樹形の青銅オブジェ。いったい何の祭祀に使ったのだろう。そもそも、この仮面の顔立ちは、一体どこの人々を表しているのか。目が飛び出して耳が大きい・・・。
話は違うが発見が最近のため台湾に持ち去られていない上に、中国政府がある程度財政力を持った時代の発見なので、物の保存状態がよい。
帰りのバスにどこから乗るのか見当も付かなかったが、駐車場の警備員さんに聞くと「その辺」と指さされた。出口らしきあたりに出てみると、ちょうどバスが来たので乗車する。
やれやれ。結局一日かかってしまった。武候祀もパンダも寺も火鍋も、またいつか成都に来るだろう、とのことで今回はパス。

今夜我々は香格里拉へ飛ぶ。昨日の下見通りに成都へのリムジンバス乗り場に行くと、バスはすでに来ていた。成都から香格里拉はそれほど離れていないが、山を飛び越すのでバスだととても時間がかかる。例によって小型機。エアバス社の飛行機は初めてだ。少し揺れたが楽しいフライトだった。「温かいコーヒー」を頼むと、ミルクと砂糖がどっさり入った、というかミルクと砂糖の味しかしないコーヒー牛乳が出てきたのにはびっくりしたが。
 飛行機が着陸態勢に入ったとのアナウンスがあった。ふと窓の外を見ると、五角形のような何かの紋章のような放射状の光が見える。市街地の光だ。暗闇の部分が多いことは、大都市との違いを示している。
 空港に着く。小さな空港だ。宿を予約してくれた中国の友人の話では、宿から迎えの車のサービスがあるとのことだったのですかさず宿に電話する。今回はすんなりと通じた。待っている間に白タクの運転手さん達が必死で営業をかけてくる。多分コレが今日最後の飛行機なのだろう。今日の売上げが悪かった人は、かなり熱心な営業攻勢をかけてくる。以前は中国語がわからないフリをして避けていたが、「宿の迎えの車が来るんです。だから結構です、どうも」と言うと「ああ」と言って去っていった。いつも気まずかったのできちんと断れるようになって良かったと思う。
運転手はチベット族の方だった。男性は何故か皆カウボーイハットをかぶっている。車に乗ろうとすると、若い女の子の二人組も乗るという。聞けば、彼女たちも同宿らしい。
社内で運転手さんの営業が始まった。彼は宿の送り迎えをしつつ、お客さんに車のチャーターの営業をしているらしい。女の子二人は乗り気だ。同行者はいっそ二人と一緒に行ったら面白いかもしれない、という。それもそうだが、彼女たちが行く先を聞くと私達の家の近くにある湿原と大差ない場所だ。迷ったが、私達は予定通り初日は松賛林寺と市街地に行くことにするので、パスすることとなった。運転手に少し申し訳ない。

 宿に到着。無事チェックインできた。同上した女の子たちと少し話をする。私達が日本人であること、明日以降の予定は決まっているようないないようなであることを先に話すと、いろいろ話してくれた。二人とも20歳で成都出身。香格里拉麗江へ行くという。行き先が同じで明後日の予定が決まっていないようなので、明後日以降の予定が合えばチャーターを協働でしてみようかと提案したところ興味を示していた。

いずれにせよこの日はもう遅かったので、さっさと夕飯を食べて寝ることにする。食事は火鍋。鍋なんだから人数が多い方が良い。彼女たちを誘っても良かったかな、とふと思ったが(何かうまい物にありつけるかもしれないし)、うまかったので言うことなし。
 部屋はとてもキレイだった。室内気温が10度を下回っていたので、眠れるか心配だったが電気毛布がある上に、オイルヒーターを入れてくれた。洗濯をし、明日に備える。荷物を減らすために衣類を最小限しか持ってきていない。だから洗濯を頻繁にしなければならない。留学中、ずっと手洗いだったことを思い出した。
 香格里拉の標高はかなり高い。3300mくらいだ。寝ている間に高山病にならないかだったが、すぐに眠りに落ちた。

12月30日(3日目)
朝シャワーを浴びようとしたが、お湯の出が悪いので諦める。
同行者と待ち合わせて朝食。朝食は宿の人が作ってくれた手製の饅頭。饅頭の作りたては本当にうまい。日本でどこかで食べさせてくれないかな。ほかには中国式に粥をいただいた。
バス乗り場を宿で聞いたが、聞いている私がそもそも市街地に不案内なのでよくわからない。地図で見て概ねの方角に行くと出勤途中の女性が足を止めて道を教えてくれた。何と親切な方だろう。
バスに乗って松賛林寺へ。途中でシャトルバスに乗り換え、思ったより順調に着いた。
チベットポタラ宮の小型版」とのこと。ここではシャトルバス、入場料などきちんとお金を取るシステムが確立している。多分世界遺産の各地を視察して整理したんじゃないかな。これなら今後の維持保存もなんとかなるだろう。中国のどうか日本の失敗の轍を踏まないでいただきたい。
 寺の階段を上るのに息が切れる。そういえばここは3300mだということを忘れていた。お坊さんを見ると階段を斜めに上っている。「斜め登り」を早速真似をすることにした。
東南アジア旅行で経験したことだが、寺の規模、伽藍や仏具は大きく違う。参拝方法も違う。しかし、同じ仏教であるということがどこか安心させる。ただ、清掃が行き届かないのはお国柄か、コストや人手の問題か。日本だったら塵一つ無い寺も、中国では鷹揚だった。
 市街地に戻るバスを途中下車し、明後日の麗江行きバスの切符について、バスターミナルで聞く。麗江までひとり69元だそうだ。当日来ても空いているから買えるだろうとのこと。随分安く上がることがわかり、一安心する。

市街地まで街中を歩いて帰ることにした。
昼食はターミナル近くの食堂。同行者のお二人とは、この辺りの趣味が合うので嬉しい。15元のチャーハンが美味しい。アベノミクスのおかげで1元=20円になってしまっているが、それでも300円だ。20年前、留学生宿舎近くの韓国料理屋で「5元」のビビンバを「贅沢品」と思って食べていた時代をちらっと思い出した。庶民の物価が恐ろしく上がった。給料もそれに見合った上昇だったのだろうか。
市街地に戻り、同行者(奥様)の助言に従って帽子(カウボーイハット)を購入する。香格里拉は高地だけあって紫外線が強烈だ。うまい方法を考えたが、現地の人のまねをするのがいいだろうと考えたのだ。20元でなかなか青いおしゃれな帽子が買えた。
ご夫婦についてスーパーや市場を見物に行く。毎回旅行では地元のスーパーを見に行くことにしている。物価や人の生活の様子は、食品を見るのが一番いいと思う。家電売り場に「飲水設備」という機械が売っていた。飲料水を作る機械だ。水質に問題があるのだろうか。それとも、湧かした水以外を飲む需要が中国にも生まれたのだろうか。

明日の予定である峡谷行きの交通機関を探る。車を1台チャーターすると往復だけで200元はするらしい。地球の歩き方にあったバスチケット屋を探す。微妙に地図と場所が違っていたが、どうにか見つかる。往復50元、入場料120元、シャトルバス60元でガイド料込み。専属ガイドが付いてこのお値段は安いのではと思うが、チャーターの方が便利だろうし二人の女の子の意向も気になる。一旦宿に戻りチベット人の運転手さんに相談してみることにする。

宿に戻ると、ちょうど二人が湿原から帰ってきたところだった。
氷の上で写真を撮ったとスマホを見せてくれた(危ないってば)。ただ、成都で育った彼女たちにはとても新鮮だったらしい。山国出身の長野県民には「いつもの光景」だったが。
早速相談を持ちかける。同行者ご主人のご意見で、宿の人に運転手さんと話したいと意向を伝えたところ、すぐに呼んでくれた。相談内容は以下の通り。
(1)麗江に行きたい。2人の女の子も一緒に行くとしたら、いくらで行ってくれるか。
(2)峡谷までチャーターしたらいくらか。
2つの商談を持ちかけたが、残念ながらどちらも不成立だった。麗江まで行けば帰りを空で帰ってこなければいけなくなる。片道4時間だから、その損失分は取らないと商売にならないとのことだった。
呼び出したのにすまなかったと謝ると「いいよいいよ」と言ってくれた。商談が出来ただけ良かった、と言ってくれたがホントごめんなさい。彼らは兄弟で運転手をやっているらしい。
 その日は大亀山公園の小高い丘に登り市街を見渡し、公園に設置されている大きなマニ車を回す・・・というのが計画であった。公園の丘に登るわずかな階段でも息が切れ、ここが富士山8合目並の標高だったことを再び思い出す。昼間寺院で学んだ「斜め登り」を早速試してみる。
 公園の巨大マニ車は、とても重かった。同行者のご主人と二人で(空気が薄いのに)動かそうとしても駄目だった。うんうんうなっていると、通りかかった韓国人旅行者のみなさんがワラワラあつまってきてくれて、手伝ってくれた。日韓協力して何とか回り出した。このモニュメント、なかなか面白いな。
市街地にあった白塔が印象的だった。日本の仏教関係の建物とは随分形が違う。違う文化圏から日本の仏教寺院を見たときに、どんな風に見えるのだろう。例えばチベット族やタイ人のような方々にはどう見えているのだろう。
 丘を下って夕飯を食べるレストランを探す。鍋ばかりでは飽きるだろう、との奥様のご提案で火鍋以外を探す。ところが「火鍋」以外のお店が少ないことに気がついた。なんとか探し当て、美味しい夕飯をいただいた。

12月31日(4日目)
朝食後に渓谷へ。結局成都の女の子二人は、一足先に麗江へ行ってしまった。もし同行できたら楽しいだろうな、と思っていたので少し残念だった。
出発時間を「午前9時」と指定された。トレッキングといえば「朝5時発」が常識の我々は少し面食らったが、よく考えれば香格里拉県の日の出が遅い時間なのだ。いや、正確には中国の標準時が東の果てにある首都の生活時間に近いところに置いてあるせいか、西の街は朝が「遅い」。海岸沿いの中国の街なら6時頃には屋台が建ち並ぶが、香格里拉県では人っ子ひとりいない。
指定された場所(受付場所の前)に行くと、セダン型の車が待っていた。てっきり乗り合いバスかワゴン車だと思っていたが(香格里拉ではそういう目的のワゴン車が街のあちこちで客引きしている)、申し込みが少ないのでこの車だという。何となくラッキーだ。車は中国ではよく見かけるフォルクスワーゲンサンタナ。20年前、中国のタクシーはマツダのファミリアかサンタナの2種類しかなかった。免許を取って初めて車を買うときにちょっと値段を見たら、日本では意外に高くて断念したことがある。
 
私は助手席に乗せてもらう。最初に聞かれたのは「みなさんが話している言葉は何語なんですか?」という質問だ。日本語です、私達は日本人です、というと「ああそうなのか、日本語なんだな」とのこと。韓国語でもないし、方言でもなさそうだし、と不思議に思っていたらしい。
日本人とわかると自然車の話になった。運転手さんの意見ではトヨタが最高だという。日産も運転したことがあるが、どれもすばらしいとのことだった。
中国での反発が日本では盛んに報道されたが、日本車の評価が依然高いことに少し安心する。客が日本人であることを割り引いても、運転手という職人として良い評価をして下さっていることに、僭越ながらトヨタ営業マンになりかわりお礼を申し上げた。
香格里拉観光は初夏から夏が良いそうだ。花でいっぱいになり、今とは全然違うよとのこと。日本の休暇制度を説明する。
時折、後席のお二人に話の概要をお伝えする。

車は郊外の道路を走る。一見すると日本の農村のような広々とした田んぼの真ん中を走っているようだが、所々にある農家の建築様式が違うので中国にいることを思い出す。稲のわらが干してあるのが見える。わらが随分高いところに干してあってちょっと不思議な感じだ(後で同行者と話をしたときに気づいたんだけど、低い位置に干すと動物に食われてしまうんだと思う。ヤクを放牧している人が結構いるから)
 突然、運転手がブレーキを踏んでスピードを落とした。よく見るとオービスがある。中国にもできたんだ!とちょっと感動。峠を越えると谷沿いに山の間を通した道に出た。それなりの広さがあって、かなり飛ばせる道だ。谷の向こうに細い山道が見える。よく目をこらすと、ヤクを追っている農家の方が見える。「放牧」って産まれて初めて見たかもしれない。
山がどんどんでかくなる。谷の道は長野県民なので慣れているが、山のサイズがだいぶ違う。
途中にスキー場があった。運転手に「スキー客は多いんですか」と聞くと「あんまりいない」とのこと。雪が少ないからだそう。なるほど。替わりに松茸の話をしてくれた。周囲の山は松茸山だそうだ。日本の松茸山よりずいぶんでかい。
快速でとばしているサンタナ。その辺の車なら軽々とぶち抜いていく。ところが、1回だけそのサンタナをぶち抜いた車があった。ポルシェのカイエンだった。金持ちがこんな山の中にもいる。
道路標示を見ていると、この道は徳欽につづいているらしい。ということは、そのまま行けばチベットということになる。快調にぶっ飛ばしていた我々の車は途中で道を外れ、「バラガゾン(漢語表記:巴拉格宗)大渓谷」に向かう。
道は突然狭くなった。時々ヤクを放牧しているチベット族に出会う。放牧しているのがみんな女性なのは何故だろう。車は谷底の道路を走る。このようなロケーションは長野県民の私には珍しくないはずだが、周囲の山の高さに驚きを通り越して唖然とする。山のサイズが日本と全然違うのだ。「山」以外に新しい概念を表す単語が必要だと思う。それにしても何故雨で浸食されて低くならなかったのだろう。
ふと、道沿いの家が廃屋だらけになっていることに気がついた。集団離村でもしたのだろうか、と思っていると運転手さんが「8月に地震があったんだ」とお話しを始めた。そういえばニュースで雲南省地震を見た覚えがある。雲南は時々地震がある。地形がごつごつしているのは河川浸食だけが原因ではないのだろう。家屋が倒壊する危険があり、全員別の場所に住んでいるそうだ。
 ガイドブックではビジターハウスがあり、そこでシャトルバスに乗り換えることになっていたが、「ハウス」ではなくて「ホテル」だった。随分大きな宿泊施設(ホテル)を作った物だ。バスも何台もある。そのわりに誰も人がいない。ガイドさんや職員さんが暇そうに庭でおしゃべりしていた。
 車が着くとガイドさんとおぼしき若い女性が話しかけてきた。発音はキレイだが、容赦なく早口の漢語(標準中国語)だ。外国人である可能性を全く考慮していないところを見ると、あまり外国人は来ないのかもしれない。出発まで休憩。トイレが掃除中&改装中で水浸しで閉口するが、オフシーズンなのでこんな物だろう。
 私たちのガイドさんは若い女性だった。まだ「かわいらしい」という表現が似合う年齢のようだから、失礼はないかと思ってお聞きしてみると20歳とのこと。「私のことはチベット語で「ジュオマー」と呼んで欲しい」とのことだった。フレンドリーなサービスにちょっと嬉しかったが、ある事情(後述)からつい呼びそびれてしまった。
 バスに乗り込むと、早速ガイドさんのお話が始まった。漢語で延々と話して下さるが、同行者へ通訳が必要だ。適当なところで話を切ってくれれば訳せるのだが、とにかく暗記していることを一気に話すことにしているらしい。こちらの反応など容赦なく、上り坂S字の酔いそうなバスの中で一気にまくし立てられた。(でも、若くて可愛いからゆるされてしまうのだろうな。日本でコレをやったら怒られるだろう)。
 しかし、話の内容は興味深い物だった。このバスの走っている道路をどのようにつくったのか、という内容だった。あるチベット族の子が大きくなったので、ある時父と村で獲れた物を売りに初めて街へ行ったのだそうだ。長い時間狭い山道を歩いてたどり着いたその街には物があふれ、大きな道路を車が走っていた。それを目にしたその子は、何故私達の村の道はこんなにも狭いのか、と思い立って学業に目覚め、長じて事業に成功し、その資金を元手に道路を造ったのだそうだ。先の地震のときにも道路が壊れたが、すぐに資金を調達して修理をしたのだそうだ。おかげで山間部のチベット族達はとても便利になった、という話だ。
 大学の時、ある日本の山村に社会調査に入ったことがある。村に大きな道路が通ったとき、救急車が通れるようになった。そのため高齢者の長期入院がヘリ、若者の通勤が可能となったことで大規模な離村は食い止められたのだ。ところが、ある高名なジャーナリストが来て夜の全国ニュースで「こんな道路が必要なんでしょうか」と皮肉混じりにレポートした。当時は「公共事業は無駄遣い」という紋切り型の報道が大流行していたのだが、それにしてもずいぶん中国と違う評価だ(どちらが良い、という話ではない)。
 彼女はひとしきり話し終わると、前を向いてスマホをいじり始めた。中国の山村に住むチベット族の若い子が、普通にスマホ微信(中国版LINE)で友達とおしゃべりしている姿に感心して、しばらく様子を眺めている。時々「ニコッ」とするので、相手は彼氏かもしれない。野暮はよろしくないだろうと、以降は彼女がスマホをいじっているときは、邪魔しないことにした。
 最初の目的地はチベット族の村落だった。しかし、人が誰も住んでいない。彼女の説明によると地震で全員別の所に住んでいて、現在改修中だそうだ。集落の外れにある丘の上に白塔があって、タルチョがはためいている。たぶんその背後にある山(サイズが日本と違う)が神聖な場所なのかもしれない。タルチョの実物はイベントで日本でも見かけることがあるが、香格里拉市内でも所々で見かけた。
 2つめの訪問地は、渓谷トレッキングだった。川は天竜川のような川だったが、周囲の山のサイズが違うので異世界に紛れ込んだような雰囲気だ。観光客が誰もいないので、ひたすら靜かな川沿いを、桟敷のような遊歩道を歩く。ガイドさんは特に案内するでもなく、我々を先導して軽快なステップで歩いていく。
 私達は時々登山に一緒に行くこともある。普段だったらこの程度のスピードについて行くことは何ともない。しかしながら、ここは3000mオーバーの高地なのだ。後続が遅れ始めた。慌ててガイドさんに追いつき「後ろがついてきてないです」と伝えた(それだけで結構息が切れた)。
が、ガイドさんは「ああ、いいですよ。自分たちのペースで歩けばいいです」と言い、全くペースを変えようとしない。その時気づいたのだが、彼女は微信でチャットをしながら歩いていたのだ。なんてこった。私はゼエゼエ言いながらついて行っていたのに。
 遊歩道は谷底まで数メートルから2〜30メートルのかなり高いところに設置してある。板が抜けたら深い川に真っ逆さまだが、中国は以外にこういうところはしっかり作ってある。だから安心だ・・・と思っていたら、とんでもないことが起きた。
オフシーズン特有の出来事と言うべきだが、途中工事中だったのだ。板を張り替えていたのだ。見れば、真下は10メートル何もない空中を細い鉄骨が渡してあるだけ。工事用の電気コードがごろごろしていて、躓いたら谷底へ真っ逆さまだ。
日本だったら「この先立ち入り禁止」だが、ここは中国だ。思った通り「気をつけてください」とガイドさんはいい、手を取ってくれようとする。まさか渡すつもりなのか?と思うと、そのまさかだった。
後続の同行者が追いついてきて、思わずひるむ・・・かと思いきや、さすが中国旅行慣れしている。驚きもせず、それどころか写真を撮って喜んでいる。さすがだ・・・。
何とか落ちずに渡ることが出来た。

デカイ山と深い川。中国の自然は見た目が日本に似ているけれど、全然違うと思った。標高も高いので、木もあまり生えていない。
しばらくすると終点についた。ガイドブックでは「ボートで下ることも出来る」とあったが、オフシーズンなのでそれはなし。こんな寒い中で水に落ちたくないのでここからは引き返すルートだ。
帰り道にガイドさんに少し話を聞いてみる。
高校を卒業して今の仕事についた。高校までは市街で暮らしていたが、今はホテルの近くに住んでいる。休日はどこへ遊びに行くのか、と聞いたところ「放牧をしないと」とのことだ。祖父母の家が近くにあるようだ。繁忙期は一日に3往復もすることがあるという。大変ではないか、と言ったところ「慣れました」とのことだった。日本でマラソン実業団に入れば、きっと有力選手だろう。毎日高地トレーニングしているんだから。
その後はさらに別の場所に移動した。今度は上り坂だ。例によって彼女は「とっとっ」と登っていく。こうなったら意地でもついて行こうと思った。雪山用に寒さ対策の重装備だったので、途中で汗だくになってしまった。30分ほど登ると一番上(もう少し階段は続いているが、これ以上は危険なので登れない、とガイドさんが言った)まで着いた。最早へとへとだ。甲斐駒に登って自分としてはかなり自信があったのだが・・・ガイドさんも流石に少し疲れた感じがしたので、それがわずかな救いだった。
 帰路についたバスに向かって手を振る人がいる。チベット族の女性だ。バスは止まり、彼女を乗せて走り出す。同行者が「回りに何もないのに、ここで何をしていたんだろうね」というので、聞いてみると放牧だという。中国語で話しかけたがうまく通じなかった。私の中国語レベルの問題なのか、彼女が話し慣れていないのか、それはよくわからなかった。
 ホテルに到着後例によっておみやげ物屋を巡り(チベット族の薬草を売っていた)、例によってお付き合い上見たふりをして、最後の菩提樹の説明を受けて終わった。
ガイドさんと何か話したかったが、「コレで終了です」とさわやかに合掌されたので、何も言えずに終わってしまった。
帰りの車の中で少し後悔した。彼女に地震のことを聞き忘れた。何よりお見舞いまで言い損ねた。ガイドの将来性や、仕事をどう思っているか、普段何を食べているのか、聞きたいことは色々あったのに、相手の言うことを訳して同行者に話すだけで精一杯だった。私の中国語は未だ知識のレベルだ。
 帰りの車の中で、快調にぶっとばす運転手さんと話をする。時々車の事故処理を見かける。まっすぐの一本道で、何故こうも事故が多いのかは、中国やアジアの国を旅した人にしかわからないだろう。途中昼飯の心配をされるが、帰ってから食べるよとお答えする。
道路沿いに「ナパ海」があることを教えてくれた。通りがかったときに「あれがそうだよ」と指さす先を見ると、長野県にも良くある湿原を少し大きくしたような湖が見えた。ここも来ることを検討したのだが、時間がないと思って諦めていたのでラッキーだった。一面の枯れ草草原。「夏くれば花でいっぱいなんだが」とおっしゃった。いつかまた来る機会はあるだろうか。
出発した場所へ戻ってくれようとする運転手さんに、バスターミナルでおろしてもらう。昼食はバスターミナル前の食堂で。明日のバスの切符を購入し、お店を見ながら市内に徒歩で戻る。
友人へのおみやげにマニ車を購入する。話のわかる友人がいることはうれしいことだと思う。