韓国朝鮮の歴史 武装集団の台頭

韓国朝鮮の歴史 (放送大学教材)

韓国朝鮮の歴史 (放送大学教材)

高句麗百済との三国時代を外交と外国の力を利用して終わらせた新羅が滅亡するのは、諸勢力の反乱によるものである。諸勢力のうち後高句麗後百済などが有力だ。
高句麗は旧高句麗系の人々が集まり成長した。王位を家臣の一人であった王建に奪われ成立したのが高麗である。新羅後百済との抗争ののちに衰亡し、最後の王が高麗に帰順した。
高麗王朝は500年にわたり存続する。そのような長い政権は日本にないばかりか、諸外国にも稀有である。アジアでは騎馬民族の勃興期であり、中国王朝が目まぐるしく変わる時代もあった。絶えず襲撃を受けながら命脈を保つところは、強国の隣の国に位置する国の中でも珍しい。
高麗の支配者層には新羅とは異なる点がある。新羅時代に「村主」として地域を支配していた有力者が武装し、軍事勢力となった。後三国時代の騒乱期と騎馬民族の襲来を撃退したのは、この勢力に依拠するところが大きい。自然、高麗王朝は武装勢力連合国家のような様相を呈した。
新羅の支配地域には文官による統治、女真支配地域だった北方には武官による軍事支配を行った。武装勢力は邑を基本単位とし、単体ないし複数を支配していたため、その構造を利用し高麗は支配を行った。日本の藩と異なるところは、国家からの評価により州、府などとランク付けされていたことである。
建国当初は身分や生まれによる貴族支配であったが、能力も勘案した試験による東洋も併用されるようになったことは、日本と大きく異なる点である。
試験によりある程度の門を設け、選抜されたものが権力闘争や派閥争いを行い、政治力で勝ち残った者が支配を行う制度は、中国などでも行われ、アジア的な支配と言えるだろう。
両班とは、文官である文班と武官である武班を合わせた呼称である。995年に中国から官階制度を導入し、政府官僚と地方豪族の分離を図った。
しかし、文臣優位の人事が武臣の不満を招き、対立と分裂の時代を経て武臣によるクーデターが起き、奴の身分であった武官による権力奪取が起きるなど、身分制度は揺らいだ。身分からの解放を求める反乱が相次いだが、崔氏が安定政権を作り上げた。崔氏は政権維持のために機構を改革し、私兵集団と最高政治期間として設置された「教定都監」の朝刊に就任し4代にわたって「崔氏政権」の時代を作った。私邸においた政房で政治を統括し、三別抄と呼ばれた軍を組織化した。

この安定時代を打ち砕いたのは北方民族であった。モンゴルの侵入に対して江華島に王宮を移し海運による徴税を行って抵抗をした崔氏政権だったが、他の武臣に倒されモンゴルに降伏した。三別抄は珍島に立てこもり抵抗したが、元と高麗軍の連合軍に滅ぼされた。
江華島時代には元軍は朝鮮半島を荒らしまわった。基本的に「元」は統治と収奪のふたつの性格を持つと思われる。後者を遺憾なく発揮し、人命財産だけでなく貴重な文化遺産も多数失われた。
中国で明が成立すると、高麗王は直ちに使いを送り後ろ盾を得ようとした。しかし、北方の武官出身で倭寇と元軍との戦いで頭角を現した李成桂は、自ら擁立した王を不徳を口実に引き摺り下ろし、禅譲させて王位についた。明に承認を求めることで権威の確立を図ったことは、抗争の時代の高麗と異なる点である。もっとも、李成桂の王位簒奪を口実に明(洪武帝時代)は仮に国政を預かるという意味の「権知国事」という地位に止められた。
両班による官僚支配はこの時代にも支配層を形成した。王の前では文官が東に、武官が西に座ったため、文班を東班、武班を西班と呼んだ。
日本の歴史の教科書は、日本は「有力者による支配」と書かれているが、実際には多くの官僚機構により支配がなされていた。しかし、試験などによる自由な階層上昇がなかったことから、「官僚支配」という表現が取られていないのだろう。この点、韓国や中国は試験が全面的、部分的に導入され、政治闘争により昇進したことから「官僚機構」という表現を取っているのだろうか。