ナチスとは

2016年に行われた東京大学大学院石田勇治先生によるヒトラーについての講演。日本記者クラブで行われた。

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ヒトラーが近年注目されているのは、昨今の社会情勢において振り返る必要があるからだ。動画の講演が行われたのはトランプ誕生の頃。麻生氏が「ヒトラーのやり方を学ぶべき」と言いながら辞任しなかった事件があった頃だ。排外主義の台頭と長期政権、アカウンタビリティの軽視など、講演から5年近くが過ぎたが、状況は改善するどころか悪化している。

閣僚たちが言い逃れるための説明を繰り返す。それを信じたがり、支持する国民。異論を唱えても反論ではなく冷笑が返ってくる。その気持ち悪さに多くの人が反論をやめ、支持する側に回りつつある。国だけではない。民間企業や地方自治の世界でも閣僚の言い逃れ手法が定着しつつある。

これを「独裁」と言っても同意しない人がいるだろう。反論の機会はある。反対が制限されているわけではない、と。

ナチスもかつてそうだった。最初から武力弾圧や秘密警察がいたわけではない。

今の状況が思わぬ方向に転べば、同じようなことが起きるのではないか、、、という想定はしておいたほうがいいだろう。そう考えてこの講義動画を視聴してみた。

以下記録。

 

ナチズムの理解のために

ヒトラーを個人として捉えるのではなく、この人物の周辺、大衆との関係の中で捉えなければいけない。例えばヒトラーを引き上げたのは保守派であることや、共産党との対立、中道政党の支持低迷とヒンデンブルク大統領の果たした役割、国民の支持とのヒトラーの関係を見なければナチズムを理解することはできない。

 

ヒトラー自身について

30歳までは普通の人であった。レイシスト、排外主義者という特徴があり、扇動が得意であったが、軍事的才能はなかった。人を惹きつける能力やカリスマ、天才だという演出と宣伝をさせ、成果を過大に宣伝した。決断力があるように宣伝したが、実態は日和見主義者であった。

「宣伝」の例を挙げると「我が闘争」の自伝の部分は脚色がほとんどであり事実ではない。ミュンヘン一揆の被告人弁論でも自分の都合で嘘を言い、自分に都合の良い脚色で強引に納得させてしまう。ヒトラーの宣伝の特徴は制服などカッコいいものを紹介する。様式美を好む。隊列や党大会、マスゲームなどを実行する。戦争で負けが続いていても党員が集まっているところでは生き生きしていた。

 ヒトラー自身は優れた政治家ではなかった。同じ考え方をする専門家が沢山ついていた。

ナチス以前に1923年にハイパーインフレ沈静化のために授権法が政府に認められているが、過去の例を利用することを専門家たちが気が付いた。「自分たちもやろう」ということと、「やられたことをやり返す」という行動が特徴的である。

 

誰がヒトラーを表舞台に立たせたのか

 ワイマール体制に反対していた国家人民党は保守政党だった。国家債務についての反対運動を展開する中で、ヒトラーに声をかけた。ヒトラーを引き上げたのは保守政党だった。

 

ナチ党について

国家社会主義ドイツ労働者党」と言いながら、労働者の政党ではない。国民主義民族主義が主な主張であり、「国家社会主義」ではない。国家は民族に奉仕するものであるという理解が根底にある。にも関わらず「労働政党である」という言い方がプロパガンダ的である。

公的な政党において党首は民主的に選ばなければならないが、ヒトラーが人を集められる看板だったことから、民主的な党首選出機能をナチ党が持っていなかったことは、後に暴走を招くこととなった。ナチ党は「カリスマ的支配」と言われるが、これは指導者の特別な資質により人を惹きつける力により成り立つ社会的関係のことをいう。したがって指導者が非日常的な偉業を示さなければ関係が破綻してしまうという惰弱性を持つ。ヒトラー自身がその論理から解放されず破滅まで突き進んでしまった。

ナチ党は都市部に進出できなかった。農村に入って政府が見捨てた農民を持ち上げた。農民こそが主役だとした。

 

ヒトラーはどのように政権奪取したか

将来展望を失った若者が急進化し、共和国離れが進んでいった。共産主義かナチズムかに二曲分解し、富の再分配を巡って対立が激化する中で政策の結果が求められ中道政党が低迷した。

国会が1930年9月の選挙で第2党に躍進、共産党は第3党に

1932年第1党になり、共産党も躍進。両党の対立で国会は召集すらされず機能不全になった。何も決められない国会に代わり、街頭の「闘争」が政治の場になる。次の選挙では共産党が躍進し、議会主義が寿命が来たと国民が考えてしまった。

その中で、それぞれの党が党益に基づく主張をしていたがナチ党だけが全体のことを主張していた。一時人気は低落したナチ党に手を差し伸べたのがヒンデンブルク大統領を中心とする保守層。ヒトラーを首相に据えた。

なお、麻生が「議会で多数をとった」と言ったが、多数をとったことは一度もない。

 

ヒトラーが首相になったことで、「ゼネスト共産党がするのではないか」という噂が広まった。国会議事堂炎上事件を共産党の陰謀だと断定し、ヒトラーはワイマール憲法48条第2項に基づいた大統領緊急令を公布する。

「当分の間」としたがこれで国民の基本権が無効になった。被疑者が司法の関与なしに逮捕できるようになり、警察の権力が一挙に拡大した。共産党の国会議員を拘束したいのが一番の目的だったが、ユダヤ人迫害はこのような状態だったから可能だった。

議員拘束後選挙を行って「授権法」が成立する。選挙妨害にも関わらず単独与党になれなかった。国家テロが横行する中で4割以上のドイツ国民が反ナチ党に投票したことは記憶しておきたい。

授権法は4年時限立法としてあったが、4年後もナチ党だったため終戦まで続いてしまった。これによりナチズムのイデオロギーが政策化されるようになってしまった。反ユダヤ法が成立し、ホロコーストへの道が開かれてしまった。2年目から国家予算は非公開となったため批判のしようもない。公共投資を行うが赤字がどのくらい膨らんでいるか数字上の根拠がないので、批判が封じ込めれらる。ヒトラー政権に反対する地方政府も制限できるようになってしまった。

 

決まらなかったものが次々と決まっていったため、それを歓迎する財界や国民も多くいた。総統という大統領と首相の権限を併せ持つ地位を作り、ヒトラーが就任したことで、無制限の立法権が成立する。ヒトラー憲法を作り直すと言いながら作らず、既存憲法をそのままにして形骸化させた。

 

世論が変わった

大量の入党者が、特に公務員の中に増えていった。保守派であるヒンデンブルク大統領は直前まで半信半疑だったが一度首相につけてしまうと成功を支援していく。自分の決断を信じたかったと考えられる。ヒトラーを信任するパフォーマンスまで行ってしまった。

保守、中道層、学者、聖職者がヒトラーになびいていった。

例:カールシュミット ナチスに懐疑的だったが入党した

知的エリートがなびいたことで、多くの学生までなびいてしまった。多くの人々が地方と都市、右と左に分裂していたドイツをヒトラーが統合し、一つになれると信じたかったと思われる。大多数の人が期待した。異論を持たなければ楽だと信じた。また、共産党が国家議事堂に火を放つような社会は危険だと考えた。ヒトラーが総統になって信頼されたのは外交の成果。ヴェルサイユの軛からドイツを解放した外交家としてのヒトラーを国民が信頼した。

また、第一次大戦前は権威を持っていた将校がヴェルサイユ体制で破却されてしまっていたが、復権させることができた。そのことで軍の支持を得た。

 

 

プロパガンダと嘘

ナチ党が続けてきた党のプロパガンダが国のプロパガンダに変わった。

この時期から「民衆宰相」という言葉が使われるようになった。「今まではエリート貴族だったが、今回は違う。ヒトラーは平和主義者だ」と信じた。ヒトラーは軍に対して再軍備すると約束していたが平和愛好家であると主張した。

失業者が減っていくのには様々なトリックがあった。女性の失業者を家庭に戻し、勤労動員、一般徴兵制により100万人規模の人々が労働市場から退場した。ゲッペルスらが宣伝した。ヒトラーは詳細は知らなかったと思われるが歓迎した。

アウトバーン建設も実際は失業者を減らす効果はなく、戦争中も機能せずに馬が歩いているくらいだった。一家に一台フォルクスワーゲンも実現しなかった。

ヒトラーが主張した「強いドイツ」で実現したかったのはなんだったのか。ヴェルサイユ体制を否定し初めから戦争を想定していた。ヒトラー第一次世界大戦の結果が敗戦を含めて不当だったと考えた。国民に実利もたくさん与えた。政策のために様々なポストができ、利益を得た人が沢山出た。ユダヤ人の迫害からも国民が受益できるシステムを作った。

ヒトラーは平和愛好家であると演出するために平和演説を行い、ヴァチカンと平和条約、ポーランドと不可侵条約を結んだが、実際は国際連盟を脱退するなど戦争への道を走っていた。

 

 

ザール地方の投票の結果ドイツに返還された。ラインラント進駐、メーメルラントを占領 ヴェルサイユ条約でできなかったドイツの復権民族自決に基づき、戦争をせずに実現できたことに国民は熱狂した。ドイツが大国の地位を取り戻したのでヒトラーを国民が支持した。

当初警戒したアメリカやイギリスと宥和政策が進み、平和裡に実現したことでヒトラーを外交の天才だと国民は信じた。

第二次世界大戦が始まった時、ドイツ国民は冷めた目で将来への不安を感じたが、緒戦の1年でポーランド占領、フランスパリを陥落させたためヒトラーのことを天才的軍事的指導者と信じた。実際、ヒトラーマンシュタイン案を軍部の反対を押し切って採用し成功したという事実はある。2正面戦争をヒトラーの決断で勝利したことで欧州の覇者となったと考えられた。その結果、1940夏にヒトラー人気がピークに達する。

スターリングラード敗北で国民の支持を失うが、ナチ党がヒトラーを支持し続けブレーキをかけられなくなった。党の非民主制が指導者の交代を阻害してしまった。

 

正統性を得るための国民投票

ナチ時代に国民投票が4回行われた。

国際連盟脱退」と「総統就任への信任」「ラインラント進駐」「オーストリア併合」の4つとも8割以上の支持を得ている。これを行なった理由は国民の支持があると印象付けるためだった。これも国際社会が口を挟めないようにするための作戦だった。