放送大学「韓国朝鮮の歴史」開化への道

韓国朝鮮の歴史 (放送大学教材)

韓国朝鮮の歴史 (放送大学教材)

放送大学テキストで19世紀朝鮮の歴史を学んでみた。

 天主教(キリスト教)の朝鮮社会での受容は日本同様、教養として学ばれていた時代は容認されていたが、信者が増えると弾圧された。(弾圧されたが現代韓国にはキリスト教徒が多いのは何故だろう?)しかし、日本と異なり19世紀のことである。幕末開国までの間にキリスト教徒の摩擦を通して、日本は西洋との距離の取り方を学んでいたと言えまいか。なぜ朝鮮社会にそれまでキリスト教との摩擦が無かったのかは、テキストでは触れられていない。

 衛正斥邪政策とは、朱子学を正統とし、それ以外を排斥するという思想である。1863年に25代哲宋死去後、嗣子不在から養子の高宋が即位。養母、生父(興宣大院君)が相次いで政権を握った。これを大院君政権という。
大院君政権の功績と失敗をまとめると、功績はまず一つ目は対外紛争への勝利。江戸幕府は簡単に屈服したが、1866年の米商船や仏軍艦侵入はすべて撃退している。軍事技術は江戸幕府より進んでいたのだろうか。中央集権であったため、軍隊が対応できたのかもしれない。

 世襲化した官僚勢力を打破するために、主流派(老論)を抑圧して弱小党派(南人、北人)や武臣、旧王族を登用し、併せて行政組織リストラを行った。しかし、老論派の逆襲に遭い大院君は退陣。国王高宗と閔氏が主導権を取る。

閔氏政権は維新後の日本との国交を書類記載不備を理由に拒絶する。結果として征韓論を招いてしまった。

東学とは、キリスト教などの信仰を「西学」とし、それに対して民間信仰などを中心に構成された宗教を基礎とし、19世紀半ばに朝鮮半島の民衆の間に流布した。東学党が後程親日的な活動をすることが知られている。

明治維新で日本が対馬藩を通した外交を取りやめたことに気付かされた。維新後、対馬藩の地位はどうなったんだろう。一時外交が途絶えたようだけど、エライことだったんだなあ。
ペリー来航であっさり屈服した江戸幕府に対し、大院君率いる朝鮮は戦って勝っているみたいだ。薩摩藩は勝ったが、長州藩は負けている。動員体制の差かな?
日朝修好条規では、日本は朝鮮国が清国の宗属関係から自立することを期待していたが、朝鮮国はこれまで通りの外交に戻ると考えた事が後日の火種の1つになったらしい。どこかで聞いた事があるような…
朝鮮国は開国後、日本へ修信使を送った。清国の公使から「朝鮮策略」を受け取り、ロシアを脅威とする清国の外交方針が書かれていた。朝鮮国が開花政策に舵を切るきっかけとなった。
使節や留学生、視察団を欧米に送った日本に対し、朝鮮国は日本と清国に送っただけのようだ。何故だろう。日本に開国を迫られたから?敗戦の経験がなかったから?
朝鮮国は開国後、日本以外の国との修好は国王名で「照会」を出して清国の属邦であると声明したらしい。今の日本より悲惨だな。
閔氏により開花政策を推進した朝鮮国だが、衛正斥邪と言われる排外派の反発を招いた。不正発覚で軍乱となり日本と清国の介入を招いてしまう。
開花政策での対立が元で軍乱を招いた朝鮮。反乱軍は日本公使館を襲ってしまう。開花派の閔氏を廃し大院君を擁立したら清国に連行されてしまう。肝心の開花派も清国派と日本派に分裂、命運極まる。