アメリカの歴史と文化 第7章

アメリカの歴史と文化 (放送大学教材)

アメリカの歴史と文化 (放送大学教材)

放送大学テキストでアメリカの歴史を学ぶ。
今回は「南北戦争と再建の時代」について。
南北戦争については一応歴史の教科書に出て来る。しかし、凄惨な内戦の末、和解はどのように進んだのだろう。復興はどのようだったのだろう。結果としてどのような成果があったのだろうか。この辺りをもう少し詳しく知りたいと思って読んでみる事にした。

アメリカ」という地域は移民によって形成された。もちろん最初から国家の体をなしていたわけではない。国家としての大きなコミュニティを形成する過程で、南北戦争は大きな役割を果たした。犠牲は巨大だったが、アメリカというスーパーパワーが成立するには欠く事はできなかったのではないか。

南部と北部は様々な利害の対立があったが、関税のあり方については全く正反対だった。北部は工業製品保護のために高関税を主張し、南部は農産物の輸出のために低関税を望んだ。1832年の関税法に反対したサウスカロライナ州は法律の無効を宣言したが、大統領が軍事行使を可能とする法律を成立させて威嚇し、妥協が成立した。

学校で習わなかったのは、南北対立が西部への進出によって引き起こされた事だ。新たな州が奴隷制を認めるかどうかで、奴隷州と自由州の数のバランスが崩れるからだ。実際、中西部のミズーリ州が連邦に編入されて奴隷州とされた時、マサチューセッツ州からメーン州が分離され、自由州を増やしたりしている。

1830sには北部で奴隷制反対運動(アボリショニズム)が盛んになり、南部に脅威を与えた。背景には奴隷反乱によるハイチの成立などがあったと考えられる。

1848年奴隷制に反対する自由土地党が成立し、奴隷制に反対する諸勢力を糾合して共和党が成立。リンカンを大統領として当選させると事態は急変する。

南部11州が分離独立を宣言し、ジェファーソン・デービスを大統領に選んで奴隷制を認める憲法を成立させた。サウスカロライナ州のサムター要塞への南軍攻撃で南北戦争が始まる。

南軍は善戦したが、当初から戦争の行方ははっきりしていた。工業生産力、人口など全ての面で北部が遥かに凌駕していたが、1863年1月1日にリンカンの奴隷解放宣言により戦争の争点が奴隷制にされると、南部は政治的にも敗北した。北軍の黒人部隊であるマサチューセッツ54連隊は映画Gloryに詳しい。

南北戦争は日本の教科書では黒人の自由獲得と、その後の社会制度不備しか紹介されないが、実際のこの戦争のアメリカ社会へのインパクトはもっと深かった。

リンカン暗殺後にジョンソン副大統領が大統領に就任。融和的な政策をとりつつ対立解消に腐心しつつ、破壊された国土の再建に乗り出す。南部社会の改革を求める議会は、ジョンソンの融和方針と戦いながら憲法修正により奴隷制を廃止し、南部を軍事占領して各州を連邦に復帰させるなどしたため、アメリカは中央集権化した。

黒人達の経済的自立は考慮されていなかったため、小作農として前借りなどの契約を結び、貧困層に留まった。連邦裁判所が人種隔離は憲法に違反しないとの判決を出すと、西部や北部にまで人種隔離政策は及んだ。KKK運動による恐怖におびえながら「ジムクロウ制度」とよばれる人種隔離政策は1950年代まで続く。

人種差別は先住民にも及んだ。「ドーズ法」は保留区に隔離された先住民に定住と農耕を強制した。「部族から離れて文明生活を受け入れた」先住民にのみ市民権を与えた。中国人の移民も犠牲となった。帰化を禁止する法律を成立させて排斥をはかった。

北部から権利を守るための戦いとしての南部の大義は、敗戦により失われた。奴隷とされていた人を除く南部の人々の中には、戦前への郷愁が残った。ラテン語の「アンテベラム」は戦争の前という意味だが、日本の「戦前」とどう違うのだろうか。

アメリカの「戦前」は土地への帰属意識ナショナリズムであったが、「戦後」はアメリカ全体のニュースにも帰属感を感じるようになった。19C末に始まった公教育制度は、南部にも年数は短いながら広がりを見せ、「合衆国の歴史」を通して国民意識を涵養した。

独立革命に関与した子孫を中心とした「アメリカ革命の娘たち」は、公的支援のもと独立革命の史跡保全を行った。似た組織の「アメリカ連合国の娘たち」は、南部に属した人たちの子孫であるが、「州との間の戦争」として功績をたたえる事で、アメリカの社会に回収していった。

高教育の中で星条旗に忠誠を誓う「コロンブス・デイ」という儀式がある。星条旗と国家が広く認知されたのはこの頃の事。

1776年の独立宣言でアメリカが成立したわけではない。日本はいつ「日本」になったのだろう。

明治維新からか?「戦後」からか?