日本の社会科の教科書にはペリー来航について、横須賀に来航した事件が書かれているが(琉球寄港の話もどこかに書いてあったかもしれないがあまりよく覚えていない)、実際には同年に小笠原に寄港し領有宣言をし(イギリスの抗議で撤回)琉球王国にも来航している。
ペリーの活動はアジア史の視点で捉えると違った意味に見えてくるように思う。とりあえず世界史で習った知識を思い起こしてみると、アヘン戦争やアロー号事件で東アジア進出に先を越された米国はカリフォルニアを1848年米墨戦争の結果として領有後、本格的にアジアへの進出を始めた。アジアの植民地争奪戦の中で日本政府により琉球王国は滅ぼされ、占領されてしまう。この時代は日清両国が国境線を持つ西洋式近代国家の成立過程であり、その国境確定の過程に巻き込まれたとも言える。第1章から第3章はその経過がまとめられている。そのうち第1章から第2章は沖縄のペリー前からの歴史について、第3章は産業構造の歴史となっている。
まずは1章から2章についてをまとめてみた。
1 ペリー以前
中国(明清)の冊封体制下にあった琉球は、1609年の薩摩侵攻後島津家の領分となる。
表向きは清国に従属しているが、薩摩藩のコントロール下にあるという強国に挟まれた国ならではの困難な時期を迎える。
(1)アヘン戦争の影響
アヘン戦争前後は「異国船来航」の時代。鎖国体制であることから、食糧や水などを提供し「退去してもらう」という方針をとっていた。
1840年 インディアンオーク号事故 アヘン戦役に参加した同船が北谷海岸沖で座礁、地元により救助されている。
アヘン戦争の結果、開放された中国市場から多くの中国人奴隷「苦力」が運び出された。この頃、そのうちの1隻で反乱が起き、380人が石垣島に上陸する事件が起きる。のちに追手に捕縛殺害されるなどしたが、病死、自殺した者もいた。
(2)琉球へのイメージの変化
アヘン戦争前後では欧米の琉球のイメージが変化した。アヘン戦争前は「武器のない理想郷」的なイメージ(バジル=ホールのナポレオンへの報告)だったが、戦争後はアジア人蔑視、優越思想が蔓延し、沖縄を劣ったものと見做すようになった(欧米との対比史観)。後に琉球処分官として派遣される松田道之も同様の思想を持っていた。
3 ペリー来航
(1)来航時の経過
1853年にペリーが来航。上陸を拒否するが武装して上陸し首里城へ。かろうじて武装入城は阻止。歓待して送り返す。ペリーからは開国のための親書を受け取る。なお、那覇市内の外人墓地に「ペルリ提督」の石碑がある。
(2)琉球王府西洋人「対策」
この当時の対策は以下の通り。
①住民との売買監視(売買がないか監視し、発覚次第金銭を回収した)
②子供が生まれないように監視(女性と接触しないように)
1854年 ボード事件 酔った水夫による女性暴行事件が発生し、怒り狂った周辺住民により水夫が殺害される事件が発生した。琉球王府は偽の犯人を仕立て上げ刑罰を科すように見せかけて処理。女性への賠償はされなかった(隠された歴史)。
<小笠原の歴史>
第1章の最後に小笠原の歴史について触れられている。世界史でも日本史でも勉強した記憶がないのでまとめておく。
小笠原は19世紀以前は無人島だった。1830年代にハワイから男女25名が初めて入植。
1853年にペリーが来航し小笠原父島(ピール島)に上陸、領有宣言するもイギリス(香港駐在英国首席監察官)からの抗議で撤回する。1875年に明治政府による「小笠原回収」まで日本に帰属しているとは言えない時代があった。「回収」の時には71名の欧米系の住民しかいなかったが、日本政府は彼らを強制的に戸籍編成させて「帰化人」とした。実質的支配は第二次戦後。
第2章 日本による琉球処分
1870年代に入ると明治維新を終えた日本が本格的に琉球への支配力を強めるようになる。同書同章では明治政府の琉球併合過程が述べられている。「琉球処分」という言葉は以前は「奴隷解放」「近代化」の意味で使われていたが、90年代以降「占領」の意味で使われるようになる点に注意が必要である。以下順を追ってまとめる。
1872年 廃琉置県処分
廃藩置県の沖縄版。薩摩と清国に両属していたが、日本が勢力下に入れる動きを見せ始める。琉球王国の薩摩藩への債務(藩債)を免除する代わりに琉球の内政改革を要求。王府は一旦は回避する。同年、要請に応じ維新慶賀使を東京に送った。琉球王が「琉球藩王」に冊封され外務省の所管とされてしまう。
琉球王国に年貢を収めた帰路の宮古島民が事故により台湾東南に漂着し、台湾原住民により殺害される事件が起こる。清国に日本が抗議したが「台湾は化外の地」との返答を受け、日本は台湾に出兵を行った。(多くが原住民に殺害されたが台湾の土地の有力者が生存者を匿い送還しようとしていた)条約に「日本国属民」の名称が載るなど、清国に対して主導権を取り始める。
事件後、内務卿の大久保利通は琉球王府に裁判権、対清断絶、日本の年号使用を求めた。琉球士族たちは対外的に不法性を訴えたが日本との関係を重視した米国はじめ列強に黙殺された。
1878年の西南戦争後暗殺された大久保に代わって伊藤博文が内務卿に就任、軍事力を持って首里城明け渡しを迫った。尚泰王を東京へ連行し、侯爵に封じる事件が起きる。
王府士族は一部は清国へ亡命(「脱清」)、琉球国内に残った者も抵抗を続け、秘密裏に租税徴収などを行っていたが、日本警察により一斉検挙される。この頃から実力をもっての占領政策が始まる。
1880年に日本と清国の間に琉球帰属問題が話し合われ、日本案の先島諸島を清国帰属(琉球王国)、沖縄本島以東を日本帰属する案に妥結する。王府士族は抵抗を続け(林世功が抗議により自殺)、さらなる弾圧を受ける。
一方の清国はイリ問題がこの頃解決し、西方の国境線が確定したことから東方に力を入れ始め、日清間の対立が激化する。そのため日本は占領政策として領民や旧支配層を味方につけるために「旧慣温存」政策を取る。
第3章は次回。