橋下氏は「独裁者」か

比較政治 中南米 (放送大学教材)

比較政治 中南米 (放送大学教材)

 政治体制の類型は学者の数ほどあるんじゃないかと思うが、第2課ではフアン=リンスによる3類型が取り上げられている。民主主義体制、権威主義体制、全体主義体制の3類型だ。
3つの類型を以下の4つの視点から分析している。

1 価値配分に関与する行為者は誰か
2 一般大衆と勝ち配分に関与する行為者はとの関係は何か
3 価値配分を決める方法は何か
4 国民が決められた価値配分を受け入れるのはなぜか

 橋下市長の報じられる発言が、報じられる通りであれば誤りが多い。だが、氏の発言を印象に基づいて「独裁」と評する向きがあるが、これについては私は違和感がある。
 もし橋下市長が全体主義体制を目指すのであれば、維新の会は前衛政党であり、価値配分は維新の会指導者であり、市民は動員されるだけの存在であり、価値配分は上意下達。カリスマと強制によって市民は指導者の意志を受容するだけの存在、ということになる。そんな事を目指しているわけではないと思う。
 どちらかと言うと権威主義体制を理念としているのではないか。
 自分が選抜した一部の市エリートと社会エリートが重要意思決定に関与(重要政策の選択など)し、一般市民は参加よりも受益者である事を望み、氏が口にする「ナニナニは何とかだ!」(例:「生活保護数の多さは国の無策だ」)というような価値配分は自分が選抜したなんとか委員会やブレーン達が行い、市民は情緒的訴えと反対者への強制(処分をちらつかせるなど)することで受容する。

 こうしてみると、平成の初期に日本中にいた箱物首長とやり方は何も変わらない、昔ながらの伝統的な手法である。ただ、政策課題が現代社会について変わっただけなのだろう。氏が悪いと言うわけではない。何か新しい政策を実施するには、日本社会では権威主義的手法が向いているのかもしれない。ただ、私はより多くの市民が試行錯誤しながらも市の未来を考え、自ら活動する社会を理想だと思っているし、市民がそのように自治に目覚めなければこの国の財政危機は救えないと思っている。この社会は権威主義的手法とは対極にあるものだ。
 橋下氏は市民の行政参加を否定はしないだろう。これまで参加していた担い手をリストラし、新しい層を育てる事になると思う。しかし、氏の改革によって大阪市がそのような社会に変わったとすれば、氏の権威主義的手法はその変革の成果によって却って打ち倒される事になるだろう。