年末に放送大学「格差社会と新自由主義」を読む

格差社会と新自由主義 (放送大学教材)

格差社会と新自由主義 (放送大学教材)

ゆとり教育が日本を駄目にする」という単純な議論が巷間を騒がす。もちろん、事実ではない。日々仕事が急がし過ぎ、自分が当事者である物事以外は、人々は単純化しないと理解出来ない。そうした人々に情報を売るために、そのようなデマが作られた。

学校授業を減らし、家庭に子どもを帰す事は産業界=国民の声によるものだった。「週休2日にしても、子どもが休みでなければどこにも行けないじゃないか」という低レベルな議論を覚えている人はもういないだろう。子どもの頃、新聞の投書欄で見た事がある。

第8章「教育の自由化と学力格差」において、週休二日制には大人をレジャーに向かわせるためだったという身もフタもない側面がある事を指摘している。
70年代、文部省は学校5日制に対して肯定的ではなかった。受験競争の緩和策が必要な事は認識していたが、学校授業時間を減らす事になる5日制は受け入れがたいものがあったのだろう。同書では「実情」として週休二日制を確かなものにするため、国民が総掛かりで子どもも2日休みに変えてしまった、としている。

80年代までは国民の生活は「しつけは家庭、勉強は学校にまかせておけばよい」という分業制度によって成り立っていた。ところが5日制によって、カリキュラムを大幅に削減する事を余儀なくされた学校は、その役割を果たす事が出来なくなった。行事だけは減らす事を反対した国民は、窮屈なスケジュールの中に子ども達を押し込む事になった。空いた1日は1年で50日。その50日を学校に家庭へ丸投げさせることになったが、一部の国民はそのことによって重大な事が起きた事に気づき始めている。

家庭の教育能力には格差があり、その格差が子どもに現れ始めた、という事実である。経済苦境で塾や予備校に子どもを通わせられない、というような単純なものではない。そもそも日本の家庭では、家庭によって対人能力、協調性、忍耐力を養う力が大きく違うのだ。
同書では家庭の中に置ける「経済」と「文化」の2要素が子どもの学力差をもたらす時代になったと指摘している。

その他、気になる点について簡単にメモしておく。
1)所得と試験成績の関係について
上位者においては奨学金の効果もあってか、あまり差はない。しかし、下位者には歴然とした所得効果が見て取れる。学校5日制とゆとり教育で子ども達をレジャーに連れ出せるようになったが、一方で学校が背負っていた公的部分が、市場化(高教育費負担の私費化)することになった。

GDP比教育費
OECD諸国の中で、日本は非常に低い。塾等の私的な産業が発達し、それを補っていると言う特徴がある。
教育は「受益者負担」の原理が働きにくい。金を出す親が受益するわけではないからである。また、必ずしもリターンが金銭ではない。私費化が正しい事かどうか議論が待たれるところであるが、国民の関心は「ゆとり教育が日本を駄目にした」という単純図式から抜け出す兆しすらない。

2)ゆとり教育による「学力低下
何を以て「学力低下」としたのだろうか。象徴的な国際比較調査が例示されている。
・TIMSSインパク
国際教育到達度評価学会(IEA)が1964に始め、4年ごとに実施されている国際数学理科教育動向調査のことである。過去3回で数学力が低下しているのは、上位国では日本だけである。この部分は報道された。
だが、同調査が同時に行った学習態度や日常の学習行動の調査についてはあまりクローズアップされていない。失敗の原因分析を行って再生するには、こちらの方が重要だと思うが、日本ではそう捉えられなかったようだ。
「学校外での一日の過ごし方」において、日本は「テレビやビデオを見る」がずば抜けて多く、参加国の中で「宿題」「PCゲーム」「ネット」が著しく低い。
PISAショック
PISAは科学の応用力をみる国際調査である。ゆとり教育で応用力を養って来たはずなのに、分野によってはトップグループから14位へと転落した。

3)母親の学歴別意識調査
苅谷剛彦「階層化日本と教育危機ー不平等再生産から意欲格差社会へ」のグラフが引用されている。
母親が中卒、高卒、短大・高専卒、大卒別に、「落第しない程度の学力で良い」と回答した人の数を1979年と1997年で比較したものである。79年には差はなかったが、97年には中卒、高卒・・・の順に激増した。このグラフは一体何を意味しているのだろう。親の学歴が高い事と家庭内の教育文化に相関関係がある事が読み取れる。

以上、統計だけでは言い切れない事も多いが、警鐘をならすに充分な危機的な状況に陥っている事は想像に難くない。その原因が、国民が自ら招いたことだということを私達は自覚しなければならないだろう。