放送大学「教育行政と学校経営」の第1章を読み終えた。
教育行政と学校経営 人間発達科学プログラム/勝野正章/編著 村上祐介/編著 本・コミック : オンライン書店e-hon
教育行政とは
宗像誠也によると「教育行政とは、権力の機関が教育政策を実現すること」、教育行政の目的は「教育の社会的基盤の整備を通じて、すべての国民に教育を受ける権利を保障すること」と定義している。
巷では子どもの社会化を重視する意見ばかりが目につくが、国や社会にとって都合の良い教育や経済的効率性ばかりをすれば、個々の教育を受ける権利を損なう。多様性を損った教育は、社会の危機において柔軟性を欠くことになる。
特別支援教育や夜間の学校教育など通常の学校教育に比べて財政支出を多く伴うものであっても、公的に運営されるべきものがある。教育は準公共財であると言われる。
また、教育行政の他の施策との違いとしては、選挙権を持たない世代に大きな影響を与えることから、選挙結果に従うことが正しいのかは難しい問題である。
- 戦前
政策形成や執行が中央集権。教育は国の事務として位置付けられる。
- 第二次大戦後
中央集権主義が軍国主義化を招いたことの反省から民主主義化と分権化が図られた。
教育基本法と単線型学校制度が定められた学校教育法が制定された。
地方分権、一般行政からの独立、教育の民主化の三原則が導入される。
- 1948 教育委員会法成立
委員の公選制が導入されるが、米国との差が問題になる。
米国は教育委員の選挙区が自治体と異なるため、政治的対立が起きにくい。日本は選挙区が同じであることから、政治的対立が起きやすい。構造上の違いからのちに公選制は廃止された。法令上は教育委員会法の廃止と地方教育行政の組織及び運営に関する法律の制定による。その変更点は以下の通り。
地方六団体からは教委廃止が強く要求されたが、教育委員会制度は存続した。戦後改革の連続性として評価されることもある。
- 1958年 学習指導要領が改訂され、国の教育課程の基準として法的拘束力を持つようになった。道徳科目の創設は、修身の復活であると議論を呼んだ
- その他義務標準法などが制定され、学級編成の標準や教職員定数、学校施設への国庫負担など現在の枠組みが出来上がった。
なお余談だが、PTAや教職員会議は民主的な運営や意思決定の必要性から生まれた。非民主的なPTA役員決めに巻き込まれている方が聞いたら仰天するだろうが、保護者が学校経営に意見できることは民主的ではある。
- 1960年代 学校経営の合理化論(企業経営手法の導入)と民主化論「単層重層構造論」
合理化論の立場からはピラミッド型の経営組織が提唱され、民主化論ではフラットな組織(鍋ぶた組織)が理想とされた。両者を統合する現代化論なども登場した。
- 1971年の中教審答申 第三の教育改革
発達段階に応じた学校体系の開発や高等教育機関の種別化など、その後の教育行政の方向性に影響を与えた。また、教頭、教務主任、学年主任、教科主任、生徒指導主任などの管理上、指導上の職制が制定された。
- 1983年 中曽根総理により中教審ではなく臨時教育審議会による改革
中曽根氏のブレーンによる「教育の自由化論」の時代。対文部省や文教族が対立した。個性重視の原則、生涯学習体系への移行、国際化、情報化など変化への対応を理念とした。6年制中等教育学校の創設、1年間の初任者研修制度、単位制高等学校制度の制度化などが提言された。
地方分権一括法で各都道府県が少人数学校編成を実施。自治体独自の教育政策の編成が進む。選挙制度改革により首相や官邸の影響力が強くなり、財務省、総務省、経産省の出向者の意向が教育制度に影響を及ぼすようになった。
この時代の地方分権改革の影響は、国の関与が減ったことで首長の権限が拡大し、首長主導で少人数学級や学力向上施策などを導入する自治体が現れた。
- 1998年 教委と学校の関係が見直され、学校の裁量権が拡大
- 2006年 第1次安倍政権
公共の精神、国や郷土を愛する心などの理念、目標の追加
首相直属の教育再生実行会議は自民党の教育再生実行本部のプランを反映させ、多くの提言を打ち出した。中教審はそれを受けて制度化する役割に。道徳の教科化、教育委員会制度改革、英語教育、大学入試改革などが実施された。
- 2013年 子どもの貧困対策の推進に関する法律(14年同大綱)
非正規雇用が40%を超えて経済と子どもに関連があることがようやく重視されるようになった。
- 近年の動き
90年代までの学習指導要領や予算統制のような入口管理から、00年代には学習成果を図る出口管理に変わりつつある。
少子高齢化により学校に多額の予算を投じることが極めて難しくなりつつある。また、有権者が高齢者に偏ることから子ども向けの政策を講じることも難しくなりつつある。