呪わしき田舎

はてな匿名ダイアリー から
http://anond.hatelabo.jp/20100831203134

リズムのいい文章だと思う。個人的にはとても好きだ。
とても共感できる部分があるので、引用してみる。

街燈がぽつぽつとしかない道を闇におびえながら全力疾走で駆け抜けるのも、夏になると井戸からくみ上げて田んぼに水を注ぎ込む小川も、稲穂の上を渡る金色に光る風も、その中を喜んで走る犬も、道端で干からびている車にひかれたイタチも、うっそうと道上に生い茂り時々大きな枝を落としている木々も、そういうものすべてが呪わしかった。

よく、都会の友人に「〜〜がきれいですね」と言われる。
だが、都会に出るまでの私には、そう言うもの全てが疎ましかった。「ぜいたくな悩みだ」とも言われるけれど、そういう問題ではないのだ。そして、そう言っている人もきっと本気で言ってはいないだろう。実際ここに住むことになれば、それなりに地獄を覚悟しなければならないのだから。

都会に行かなければいけない、という思いはまさに呪縛だった。こんな田舎にいてはいけない、田舎はつまらなく、古びていて、垢抜けない。だから都会に行かなくてはいけない。

この山に囲まれた池の周りで一生終えるなんて冗談じゃない、と思っていた。ここの世界はとてつもなく狭いと思っていた。
あの頃は、確かにそう思っていた。

確かに狭いと思う。だが、その狭い社会すら俺の手に余ることをそのときは気付かなかった。

山の手の内側で育ち、閑静な住宅街で育った人たちは、ここは「イナカ」だから、東京じゃないという。私はそれを聞くたびに笑いをこらえきれなくなる。あなたたちは田舎を知らない。

最初に住んだのは埼玉県だった。大学の同期で東京都の住人たちが「ひどい田舎だ」というのを聞いてもよくわからなかった。18両編成の東武東上線武蔵野台地を往復するのを見て「すごい都会だ」と思っていた。夜になってもひっきりなし走る車と、深夜まで消えない電気と。

大きな木が育っていてもそれを管理せずに朽ちていくばかりにする田舎、邪魔になればすぐに切ってしまうから、町の中に大木は残らない、それが田舎だ。古いものは捨て、新しいもので一帯を覆い尽くすのが、田舎だ。昔からあるものを残しながら新しいものをつぎはぎしていく都会の風景とは全く違う。

一概には言えないが、大枠で言えばその通り。田舎の人たちは古いものの価値を知らない。「古い民家を改修して活用する」などと言っては、宗教施設のような金ぴかにしてしまったり、古い民家の風情をすべてぶち壊すような改修をしてしまったりするのが田舎だ。
金がない上に、人材がいないからである。
どっちが卵でどっちが鶏なのかは俺は知らない。

ただ、私は都会と田舎の呪縛から逃れることはできなかった。逃れる前に都落ちしてきてしまったから。

都会の人も「トカイ」にあこがれ、ここは田舎だというけれど、「トカイ」というのは結局幻想でしかないということを私は長い都会生活の中で理解したのだ。

「トカイ」が決して得られない憧れであるなら、「イナカ」は生活の中に存在する不便さや不快さや、許し難い理不尽やを表しただけで、「トカイ」と表裏一体をなしている。「イナカ」も「トカイ」も幻想でしかない。

今でも東京へ帰りたいと思うことがある。
記事の通り、「田舎」というのは、生活の煩わしさのすべての象徴なのかもしれない。
そのことを受け入れられていない私は、今も呪縛から逃れられずにいるのだろう。
私の「煩わしさ」とは、たぶん、「若さ」というものなのではないだろうか、とふと思った。