箱もの行政についての考察

箱もの行政批判が一時よく聞かれた。最近影を潜めたのは、形態が少し変わったからではないか。昔のように行政と癒着した一部の業界の人が、影で不透明な取引をして作られるような絵に描いたような公共事業が減ったからだろう。現在よく見られる箱もの行政は、以下に述べるように行政の実務を知らなければ解りにくいので、メディアが報道しにくいのだと思う。

箱物行政批判をする人の根拠は「税金の無駄だから」というものだ。この論法だと「必要なものには支出すべき」「コスト削減の努力はする」という反論の前に簡単に屈服する。必要不必要の判断をする根拠となる資料は、大抵企画者(行政)の用意したものだからだ。シンクタンクの無い日本において、反対者が独自の資料を用意することは殆ど不可能だ。

と、いうか。
そもそも批判の角度が間違っているのではないか、と私は思っている。

箱物の弊害を考え直してみる。
手段と目的を取り違えることで、実体経済と財政を歪めることにある。
例えば、行政が作った観光施設に客が入らないとする。行政職員は客を入れる為に様々な努力をする。当然人的、物的な追加投資(パンフレットを作る、キャンペーンに参加する、など)が行われる。財政非効率はますます拡大し、行政が本来すべきことが結果行われず、厚生損失は解消されずにのこる。

箱もの行政の定義を考えてみる。弊害が上述であるならば、当然ハードに限らない。ソフトでもありえる。法律、行政部署、明文化されないルール、イベント・・・さまざまな姿をしている。そのことを踏まえて事業を見直すと、意外にも世の中に広汎に存在することがわかる。

箱物プロジェクトは行政に多いが、専売特許ではない。当然民間にもある。費用対効果の検討が、事業実施決定の後に行われているのは大体あやしい。既に意味を失った事業がリストラされずに残っている例もある。私の数少ない経験上、誰かの思いつきとか、顧客の横車とかがきっかけになる。

では、箱もの行政は何故発生するのか。
どこかに悪代官のような行政幹部がいて、陰謀を巡らしているわけではない。
しばしば見受けられるのは、補助金を支給する行政現場での職員の行動が作り出すものだ。補助金申請の締め切りが迫り、手段先行、目的後回しで事業が始まることがしばしばある。目的手段説が正しければ、これらは箱物予備軍だ。だが、その職員は仕事だからやらなければならない。事業を進める中で目的と成果を徹底的に追いかけ、箱モノ化を防がないとならないのだが、そういうインセンティブを持った職員は少ない。とにかく期限までに関係者の利害を調整して予算を作り、年度末までに予算を使い切り、書類をあげなければいけないのだ。結果や成果は二の次なのだ。当然、何が大切だったのかはそのさらに次だ。

何故このようなことが起きるのか。
国からくる補助制度の多くは申請期間が極めて短いものが多い。市町村担当者が普段から住民と交流を持っていてニーズを把握していても、間に合わない。実務上、とりあえず書類を作って申請をしてしまい、後から関係者を集めて話すこともある。関係者の中から良いアイディアが出ても、補助制度の枠に会わなければ却下される。そこで抵抗する関係者はあまりいない。普通の民間の人が貰えるお金を蹴ってまで、自分の意志を通すことはあまりない。なぜなら、行政が勝手に申請した時点で彼には当事者意識は無いからだ。

従って、うまく行くものの大部分は既に実施段階のものが制度の存在を知って手を上げるものだ。だが、そういうものに補助金を出す必要はそもそも無い。
だからといって、プロジェクトを急造すると、ろくでもないものができる。

昨今、政権が代わって何何産業を重点支援する!という勇ましい言葉を聞く。だが、上述の通り急に予算だけつけても、現場行政職員が力ずくで作ったプロジェクトに支出することになる。政治家たちは本気でうまくいくと思っているんだろうか。
だから、新産業創出にいくらかける、という言い方には警戒した方よさそうだ。

「公共事業が景気回復に有効ではない」という主張がある。古典派の流れを汲む市場機能重視派だ。その説には補助金行政を詳しく見ると理があると思う。補助制度を作ってから対象となる事業を探すorでっちあげるというのは、事業に見合った資金を調達する通常の市場プロセスを完全に無視するため、淘汰されるべきものがされないのだ。挙句は担当の作文能力にかかたりもする。

そのため市場調査が不十分であることも多い。行政の作ったものが売れないのは担当者がノウハウを持っていないからだけではないのだと思う。