台湾の歴史

語学学習のために、台湾の歴史の学習を進めている。

参考図書:台湾経済読本

台湾ほど立場によって見方の変わる土地は東アジアには少ない。
以下、同書で気になったところを要約する。


<「台湾史」まとめ〜外的視点から>
とりあえず歴史から。
漢族の記録がほとんどなので、漢族にとっての歴史が中心にまとめられている。現代史に近い台湾の歴史は、大陸側か台湾国民党側か、台湾移住民側かで歴史の見方が大きく変わる。言うまでもなく、大陸側の歴史観が現在圧倒的優勢になりつつある。

化外の地」として中華文明圏の外に置かれていた台湾。ポルトガル人が「イラ・フォルモサ美麗島)」と命名、オランダ、スペインが局地的に支配した。
17c初頭、東インド会社を設立したオランダは、澎湖島を占領した。明国は撤退を要求する替わりに台湾を割譲した。台南市周辺の南部地域を占領し、ゼーランジャ城とプロビンシャン城を建設。中継貿易を始める。
取り扱われた品は東南アジアの香辛料、錫、琥珀、アヘン、日本の銀、中国の陶器、漢方薬材、金に、台湾産の砂糖、鹿皮を加えて輸出した。

米と砂糖の生産を大陸から招き寄せた漢族に任せる。これまでマレーポリネシア系の住民が熱帯雨林に住んでいた台湾の地に、漢族が本格的に集住し始めた。スペインが一時北部基隆(鶏篭)を占領するが、オランダに駆逐された。

大陸政権が台湾に関心を寄せるようになったのは、鄭成功の台湾占領以降である。反清復明を掲げた鄭氏は、大陸での闘争に敗北して台湾に遷る。鄭成功の死去とともに鄭氏台湾政権は敗北して滅び、替わって福建省管轄下の台湾府として大陸の政権に組み入れられた。

福建省広東省地域の貧農が移住した。両地域は山岳地帯で零細農家が多く、経済的に常に厳しい状況にあった。清国は移住を促進したわけではない。反乱の拠点となることを予防するため法令(家族帯同禁止、届け出許可制等)などで極力制限したが、台湾に可耕作地域があることが知られると移住が進んだ。福建地域が最も多かった。
「黒水溝」(台湾海峡)は危険な海域であったことから、海峡横断は命がけであり、女馬祖廟に祈って渡った。(そのことから、この神をいまも信仰する台湾人は多い)。
客家の移住制限は1760年に解かれると、広東省から客家の移住が増えた。後発組の彼らは山地に移住し、闘争が続いた。また、原住民との争いも絶えなかった。
「五年一大乱、三年一小乱」と言われた。
「分類械闘」原籍地の異なる派閥が武器を持って闘争すること。

<人口>
1684年  数十万人と推定
1736年  60万人
1811年  200万人
1905年  300万人
1905年時点では福州出身者が大半を占める(泉州44.6% 漳州15.6%)

<清代政治について>
満州族官僚は台湾に赴かず、漢族が人質をおいて赴任した。下級官吏には賄賂が横行し、公権力が信用できないため分類械闘はますます激化した。

原住民の統治地は蕃地と呼ばれ、蕃租を納めて開墾した。土地の収奪も行われ、闘争が絶えなかった。無主の土地は清国に開発許可を得る必要があったが、無許可占有が絶えず、これも争いの種となった。水利開発が進み、単位面積当たりの収量は東アジア最高水準となった。納税のために共同体で開発を行うこともあった。
オランダ時代から、コメや砂糖黍が主な作物だった。「郊」と呼ばれる商業組織ができた。のちの商業資本形成の端緒となった。
台南の「郊」の商圏
「北郊」・・・転身、煙台、上海
「南郊」・・・アモイ、漳州、泉州
「糖郊」・・・砂糖
「布郊」・・・布を扱う

東南アジアは欧米人の経営する植民地プランテーションが作られており、華僑の多くはその中に組み込まれた。しかし、台湾は統治機構が整備されておらず、住民組織が多く成長せざるを得なかった。

牡丹社事件以降〜帝国主義の進出
明治維新後の日本とバイワン族による事件。琉球宮古島の漁民が牡丹社に踏み込み、殺害されるという事件が発生した。これに対し、清国政府は生蕃が行ったことだからとの理由で不干渉方針を取ったため、日本政府は出兵した。琉球と台湾の領有権を得ることができたが、清国は出兵兵力の不足、日本は欧米列強の支持を得られず北京専約が締結され、賠償金50万両と琉球の日本への所属と台湾統治が間接的に容認され、半年後撤兵。

洋務派官僚による台湾開発(沈葆鋤キ、丁日昌)
沈)
海防強化、行政区整理、砲台建設(安平、旗後、東港)山地開発
原住民地区への接近禁止と通婚禁止解除、道路建設
丁)鉄道建設、通信用送配電線拡充

フランスぼう湖島占領により帝国主義への危機感から清国が本格的に台湾開発に乗り出す。
1883年清仏戦争 アヘン戦争後の清の衰退を見て開戦。主戦場を福建省に定め、福州と基隆への攻撃を繰り返す。清軍指揮官李鴻章は、劉銘傳を台湾に派遣。砲撃により撃退。

日本の朝鮮進出を警戒した李はベトナム宗主権を放棄、フランスによる保護国化を容認する引き換えに、台湾海峡の封鎖を解かせることに成功。清国は台湾を福建省台湾府から台湾省に格上げし、劉を初代の巡撫に任命。
劉は不正の横行する台湾の綱紀を引き締め、隠田を掌握し、平等な地租を課した。租税は増収となる。
インフラ建設としては、台北から新竹までの鉄道を敷設。基線を輸入して台湾、大陸、東南アジアとの交易をおこなった。電灯、電報線、郵便事業の開始、外国語や数学、測量法教育を導入した。台湾の都市は清国の中でも近代的な都市となった。
台湾近代化の基礎を築くも、北京の保守派により失脚。後継によりプロジェクトの多くは廃止された。劉の事業は日本が引き継ぐことになる。

日清戦争後、和平条約締結の交渉中に日本はぼう湖島を占領。李は屈辱的な下関条約を締結に踏み切る。台湾住民は日本の占領に憤激したが、北洋艦隊が壊滅した清には台湾を防衛する力はなかった。台湾は総督を主席とする台湾民主国を設立し、抵抗する。外国干渉を恐れた日本が大兵力を投入して(陸軍大将樺山資紀を総督、北白川宮能久親王指揮下の近衛師団)台湾を確保すると、民主国総統はアモイへ亡命した。
北部から南部への進駐に抵抗が強く、乃木希典の第二師団を投入。伊藤潔によれば、陸軍2個師団5万人、軍属車夫二六〇〇〇、軍馬9500頭と、陸軍の3分の1と、連合艦隊のすべてを投入した。
総督は樺山、桂太郎、乃木三代にわたって3年間武断政治が続く。総督は土皇帝と呼ばれた。四代総督児玉源太郎と民政長官後藤新平の代に至って、本格的な拓殖がはじまる。