20歳の君へ 〜旅立ちの日

友人が渡豪する。
その話を聞いて、急に思い出したことがある。
中国へ留学に出発する直前のことだ。

やることが具体的になってきて、期待より不安が高まっていた。当時の中国は今のようでは無く、未だ発展途上国であった。アフリカへ青年海外協力隊で行くよりはマシだが、しかし生きて帰れないかもしれない、と言うところもあった。

だが、俺はそれとは別にとはまた別の感情に気づいていた。

焦りのような、不安のような。
この時が二度と戻らない喪失感だ。

偶然大学には受かったものの、受験勉強から逃げたことに強い敗北感を持っていた。
他人とのコミュニケーションにも自信がなく、就職しても自分が幼いころイメージしたような仕事はできないだろうと思っていた。

1年間通常のルートから外れて留学すること。そこで死にものぐるいで勉強してみること。そのことで自分の力を測ろうと思ったのだ。

いや、あるいは何かを諦めたい、そう思っていたのかもしれない。
自分は努力さえすれば何でも出来ると思っていた。いや、今も信じている。だが、
一生は一度しかない。持ち時間は全ての人に平等で、そして俺は20歳になろうとしていた。あと数年で一歩めを踏み出さなければならない。それなのに、まだ自分は定まっていない。定まる力すら無い。

俺はある意味、あらゆる可能性を、あるいは自分を諦めようとしていたのではないか。
その喪失感が、不思議な感覚で出発前の俺を満たしていた。

今となれば、その試みはおおむね成功したように思う。結果を受け入れるのには少々時間はかかったが。

確かにその年、小さな俺にしては大きな決断をして可能性(当時の俺の定義における、だけど)を失ったのかもしれない。しかし、その代価として巨大な世界を手に入れることになった。異文化についての「情報」ではなく「経験」という何物にも代え難いものを手に入れた。
きっとこれで良かったんだと思う。


最近ふと思うことがある。
結局は何をやっても同じことなんじゃないか。
やった内容が問題なんじゃなくて
俺の中にできた行動原理のようなものこそ、俺が得た最も重要なものだったのではないか。

何でもいいわけじゃないだろうけれど、だが、思い切ってやってみて良かったと思う。

結局俺たちは、生きたい自分を生きるために、何かを失い何かを得る。そういう旅を続けているのだろうと思う。