日本人が中国人に勝てない3つの理由

中国企業の追い上げに辟易していた日本企業だが、連携をうまく取れた企業以外、とりわけ地方の孫請け零細製造業への影響が甚だしくなりつつある。また、中国で製造された廉価品を大量販売する100円ショップのような店に押され、高コスト体質の商店街などは風前の灯となりつつあるように見える。なんとなく、中国人に仕事を奪われるのではないかと言う不安を持っている日本人は多いことと思う。
実態の検証をあまりせずに、こうした気風が広がって行くのは非常に危険だと思う。そのうち、中国のことを根拠無く過小に評価する向きを見かけるので、それに対するアンチテーゼを提示してみたいと思う。

なぜそう思ったのかと言えば、NHKで放送中の「蒼穹の昴」を見ていたら、皇帝のセリフを聞いて愕然としたからだ。「日本人は長い間我が国(中国)を研究してきた。しかし、私たちは彼らの何も知らないではないか」。このセリフを聞いて、今の日本にはこの逆が全く当てはまるだろうと思った。

このままだと、本当に日本人が中国人に追い越されてしまう。

(1)中国近現代史研究の不足
中国はこの150年ほど、過酷な歴史を歩んできた。いや、この国(というより地方)の人々は安寧な時代を過ごした時期の方が短いのだが、特にこの150年はひどかった。

19世紀末から、欧米列強が寄ってたかって領土や財宝、教育、平穏な生活、果ては魂まで持ち去った。そればかりか、仲間だと思っていた日本によって留めを刺された。弱り切った清に群がる様は、死肉に群がる禿鷹にも見える。
ようやく戦争の混乱を収束したと思ったら、平和をもたらすはずの中国共産党が暴走し、大躍進、文化大革命と豊かになろうとする努力と、貴重な人材を奪い去った。

こうした抑圧から逃れ、今中国は平和と繁栄を謳歌している。様々な政治的危機は存在するが、常識的に考えればこの認識が中国人の多くのコモンセンスなのではないか。経済成長をもたらしている中国共産党の体制は、当面揺らがないだろう。

それなのに、90年代以降日本人識者の中に、びっくりするようなことを言う人たちが大勢いる。
「貧富の差が社会的危機に発展する」「少数民族は抑圧を受けているので、今後次々に独立するだろう」「中国はそもそも地方ごとに気質が異なるので、分離独立を図る省があらわれるだろう」

いずれも、100%そういう危機が無いとは言えないが、現時点において1%も可能性は無いだろう。そういうのを日本語では「誤解」とか「不見識」言う。


(2)日本技術への過信
「日本人は器用であり、中国人は簡単には日本の技術はまねできない」という言葉を良く聞く。

これは一体何を根拠に言っているのだろうか。こういう耳に障りのいい言葉を言うコンサルタントなどの話を聞いていると、都合の良い例証を持ち出してきては、結論ありきの話をしている。
ならば、反証しよう。

「琴」という古い楽器がある。
中国発祥だということだが、中国では古来、相次ぐ改良が加えられた上に、政変や異民族の侵入などによって新たな形態や演奏の手法が取り入れられて、原形をとどめないくらいに変化している。
ところが日本は、古い形態を墨守し、新しい技術をほとんど取り入れていない。明治になってようやく弦を増やしたりしたが、基本的なことは何も変わっていない。結果、時代に適応できず、大きな革命騒ぎも無かったのにほとんど絶滅してしまった。

ものづくり政策にかかわる関係者はしばしば、「中国人より日本人の方が器用」などという根拠の無い意見をもとに、日本の製造業はまだ安泰だと主張する。しかし、最近その嘘もだんだん通じなくなってきているようだ。彼らは見たい幻想を現実と混同してる。

(3)反日感情へのアレルギー
日本の歴史教育においては、近現代史まで時間数が足りないためあまり教えていない。基礎教育をかっとばして「中国に謝罪しなさい」ということだけは教えているようである。私もそうだった。ひたすら残酷な写真を見せられ、お前たちの祖父はひどいことをした、だが、悪いのは天皇であり軍国主義だ。自衛隊は良くない、というようなことを延々と授業で教えられた。
しかし、ひとつひとつの事象は有機的な連携を欠き、理論的でないばかりか、肝心の「二度と起こさない」ためにはどうしたらいいのか、という考察が全くない状態になっている。その事へのフラストレーションが、中国における反日感情へのアレルギーとなって、中国と正面から向き合うことができずにいるように感じる。



今の状況を鑑みて歴史から学んだことを照らし合わせてみると、現実から目を背けた国は一つとして成功していないと言う典型的な事例を、我が国は歩もうとしているように思える。