公衆衛生草創期

公衆衛生 (放送大学教材)

公衆衛生 (放送大学教材)

公衆衛生の草創期の話。

公衆衛生の原点としては、開明君主として知られたオーストリアハプスブルク王朝 皇帝ヨゼフ2世(1741−1790)治世の施策があげられる。当時、2つの状況に直面していた。
(1)打ち続く戦乱の中で、富国健民による強い国づくりが急がれていた。
(2)宗教改革による修道院改革で社会福祉機能が解体してしまったことから、再建を図る必要があった。

1.「室病は個々の過誤の結果ではない」
ペータ・フランク(パヴィア大学臨床医学教授、ロンバルディア地方公衆衛生総監、ウィーン一般病院院長)は18世紀の人。衛生関連施設や大学教授で公衆衛生を教える傍ら、「完全なメディカルポリースの体系」をあらわした。
第1巻が出生から始まっているのは、「人口確保」が絶対王政の至上命題だったことが原因である(らしい)。
川喜田愛郎はフランクの研究から、「近代医学の史的基盤」で医者が病人を個々に原因があると捉えていることに問題意識を持ち、公衆衛生への公的医師の関与を強く主張していると分析している。
疾病の原因は社会の貧困と無知にあるとし、個人レベルよりも社会にこそ原因があると主張した。


2.エドウィン・チャムチックは、19世紀末、産業革命期のイギリスに登場した。
彼の「衛生報告」は労働人口(Labouring Populetion)の確保がテーマだった。2つの功績がある。

「抑止効果」
失業者が安易に救貧法にすがるのを防ぐため、救貧法改正に着手した。
1834年 改正救貧法で「劣等処遇の原則」救貧法適用者は一ランク下の扱いとなる。所得調査を行うため福祉政策の適用を受けることは恥ずかしいこととなった。
高齢者が福祉の対象になるまで、こうした「抑止効果」が福祉政策の原理となったことが、その後の福祉の性格を決めた。

「福祉は自治体の役割に」
行政機構を利用して労働人口の衛生状態と公的対策、労働現場の環境、地域の衛生状態などに就いて悉皆調査を行った。
豊かだから、裕福だからと言って死病からは逃れられないことを明らかにし、豊かな人も貧しい人同様、全数的な予防策を提起し、人間全体を対象とする「パブリック」の概念を明らかにした。
全数的対応のために制度の「画一化」を進めたが、結果として福祉政策の実施が「自治体の役割」であることが明確になった。

公衆衛生の特徴として、「画一主義」があげられる。法律により全国一律の基準を導入することである。

この場合、「画一主義」は全数対応を目的としている。
エドウィン・チャドウィックは功利主義で知られるジェレミーベンサムの弟子であり、最大多数の最大幸福を目指す哲学の影響を受けている。伝染病や健康、疾病対策については、一部の自治体などの不履行により水泡に帰すことがある。

全ての人が一致して取り組まなければ効果のない施策で、かつ各自治体の役割が要求されるものについては、法律を制定して足抜けする自治体が無いようにする必要があった。