カール=マルクス

マルクス入門 (ちくま新書)

マルクス入門 (ちくま新書)

大学の頃、マルクスを少し読んだ。専門が社会学だったからだが、その割には何も覚えていない。問題意識がなかったからなのだろう。

同書は「マルクスについて知りたい」人向けではなく、マルクスが好きな人たちについて知りたい、という需要にはツボにはまるほどいい本だと思った。

「あとがき」から読む事を私はあまりしない。そうすればきっと、多くの書評家のように着眼点を適切に捉えた文章を書けるのだろうが、なんとなくみんな「あとがき」から読んでいるようなので、読む気がしないのだ。

何故いまさら「マルクス」を読む気になったのかといえば、教養として持っていないとわからないことが多数あることをようやく自覚したからだ。また、マルクスが誤解されている気がずっとしていたこともある。ソ連邦崩壊の原因は、別にマルキシズムが間違っていたからというだけではない。

・・・と、思って本書をブックオフで手に取ってみた。
読む気がしないので、慣例を破ってあとがき、まえがきを読むと、まさに吾が意を得たりな事が書いてある。というわけで、衝動的に購入した。

<色のついたマルクスばかり>
共産主義者、自称共産主義者聖典となったマルクスの著作群は、好き勝手に解釈されて来た。これから読もうとしている私にも色眼鏡がある。そういうことに自覚的であるように、著者はまず促している。身につまされるようなご指摘だ。

著者はマルクスの読まれ方を3類型に分類している。どれかが優越するなどして一つの解釈が出来上がっていると言う。
(1)経済中心史観
(2)実践的主体論
(3)構造論(関係論)

・・・・・浅学な私には、何の事かこれだけでは全然わからない。


このうちの(1)経済中心主義の中に、興味深い記述を見つけた・・・マルクスを読んだ人たちには珍しくも何ともない話なのだろうが、私にはおもしろかった。

どの時代においても、社会に必要なものを生み出す土台として経済は重要である。しかし、経済史観は社会も文化も経済がその活動の結果生み出しているものだという論法を生み出した。「反映論」と言うそうだ。

18世紀のフランスの感覚論者(素朴唯物論者)エルウ゛ァシウス、ドルバックらによって唱えられたこの理論は、19世紀末から20世紀のマルクス主義者を自称する人たちの間に、経済的土台が政治や社会という上部構造に「反映する」と言う論法を持って復活する。「神的なもの」が実態変容して「受肉する」という構造を持ち、神学のようでもある。
社会が形成される過程についての論理と、経済が社会の基礎的な位置にあるという論理が混同されている。社会の存続に経済が必要であっても、経済が全てということではない。この論理の混同を招いたのは、「建物」を利用した比喩的論法であることを覚えておきたい。すなわち、下部構造に経済があり、その上に社会、政治があるという物のいい方である。もっともらしく聞こえるので、多くの人がだまされた。逆に言えば、うまく使えば多くの人をだます事が出来る・・・ということか。

しかし、だまされた原因は「わかり易かったから」というだけではなかっただろう。台頭する資本主義社会は、政治と経済の間に楔を入れた。すなわち、政治からある程度経済が自立して資源を自己調達し、成長していく事が出来るようになったという事である。
技術革新による急速な産業化は、深刻な階級対立を招いた事は周知の通りである。この二つの驚きが、経済が全ての物事を司るのではないか、という感覚を人々に植え付けた。
マルクスエンゲルスの主張は、論争的性格を持っていた。「経済を無視して社会を語る事は出来ない」という主張を述べるために、経済について少々強調しすぎているとも言える。そのことが、時代の風をたっぷりと吸った、後の学者や世論に教条主義的に受け止められ、経済こそが社会の中心であると言うおかしな解釈を生んでしまった。思想は時代背景を無視してはいけないと言う例である。


建物にたとえるという手法は、人を説得するときに使えそうだ。さも尤もらしく聞こえる。ちょっと考えてみようと思う。