フィンランド続き。

フィンランド豊かさのメソッド」つづき。

OECD各国の中でトップレベルの「競争力」をもつフィンランドの教育力だが、学習時間も宿題の量も取り立てて多いわけではない。高校受験も無い。それなのに、なぜ競争力のある子どもたちが育つのだろうか。
著書の中で「ユヴァスキュラ大学教育研究所」のヨウニ・バリヤルビ氏所長の研究成果の照会があるが、少人数制、カウンセリングサポート、同じクラスの中での特殊教育など、サポートシステムに非常に力を入れていることがわかる。

このあたりの著述からは、教育事業が主体性を作る支援事業であるということを、フィンランドの世論が認識しているような印象を持つ。無論、あくまで「印象」である。この著作は、著者の経験則から書かれているため過信は禁物だ。しかし「経験則」は統計的使い方ができないが、事例を多く集めることで統計では現れない真実に迫ることが出来る、ひとつの貴重な証言であると私は考える。

話が逸れた。

日本の教育はそうではない。「昨今の若者の出来が悪いのは受験勉強のせいだ」と言っていた人たちが、舌の根も乾かないうちに「ゆとり教育で学力が低下した」と批判し始めるこの国の風土は、もはや救いようが無い。私は教師ではないので詳しくは解らないが、少なくもどちらの意見も教育現場で起きていることの本質から外れた、無責任な発言だということだけはわかる。

また、教師の質も高い。ほとんどの教師が修士号を持っている。試験内容は日本の最近の教職試験を少し進めたような感じだ。採用に関して年齢条件は無い。教職に関して、伝統的にフィンランド社会では尊敬される職業である。「教師」という点において、日本に足りないものは「尊敬される職業」というところではないだろうか。PTAとそれを支える地域社会の質の劣化、モンスターペアレントという一種の病気のような人々の増加は、質の悪いマスコミにあおられて、ということもあるだろう。しかし、病根では無い気がする。

「日本の社会は、高度経済成長が終わってからというもの、社会としての目標を見失っている」という説があるが、これとの関係が取りざたされている。

学力について興味深い著述がある。
トップレベルのこの学力は日本と変わらないが、底辺の子のレベルが違うと言う。授業において、おちこぼれを出さないような工夫は随分と徹底している。日本の「底辺校」(注:マスコミの造語。定義は「偏差値が低い」という意味らしいが、状況に応じて勝手に自分たちの都合の良いように意味を変えて使っている気がする)の人たちの学力の低さは、ほとんど報道されないし、話題にもならない。わが国においては、「学校で勉強したことなど役に立たない」「勉強をすると頭でっかちになり、人間性を失う」と言う迷信があることも影響しているのではないか。劣等感の裏返しの発想に、さらに動機付けして誰が得をするのだろう。
日本においては、生涯学習はまだ普及の発展途上にあり、卒業後勉強しようと言う人もとても少ない。特に地方では資格をとっても転職先が無いなど、インセンティブがないことから、20代、30代がどこかの学校に通って学ぼうとか、公民館で自主グループをつくろうなどと言うことをする人はごく一部だ。したがって、わが国においては人の学力は卒業時から徐々に低下していくので、卒業時の学力は高めに引き上げておかなければいけないのだがそれもままならない状態である。授業が崩壊したり、一種の「ケモノ」のようになった生徒たちを「管理」することに追われてしまっている教師の皆さんが、どうしたらフィンランドのような教育を実現できるのだろう。
大手マスコミも、教育に関する報道と言えば「教師叩き」しかないんじゃないかと思えるほど、学校の印象を悪くするような偏った報道ばかりしている。稀に学校で良い教育が行われていても、教師の功績はほとんどクローズアップされない。担当教諭自身が自らの功績を誇らないのは日本的文化だ。だが、それをそのまま伝えているのでは、真実は伝わらない。マスコミの使命は、真実を伝えないことに変わったのだろうか。

<男女間に学力差がある>
学力に男女差があるようだ。女性のほうが勉強をするのは、フィンランドも同様らしい。それにしても、日本の男性の学力の低下には、危機感を感じざるを得ない。女性の学力が伸びたことで男女差がついたからではない。男性の学力が落ちたからだ。原因は誰か研究しているのだろうか。

<大学など>
大学と高等職業専門校がある。校舎は「ポリテクニック」と呼ばれ、実用的、専門的知識を学べる。著者は「日本の専門学校のようなもの」と書いているが、卒業まで3〜5年であり、日本の専門学校とは本質的に違うと思う。転職支援が充実している国だ。おそらく、学校においても実戦的なことを教えているのだろう。
日本の専門学校は、生徒の質が非常に低い学校も多い。別に高卒で就職してもいいのではないか、と思うのだが高校卒業した段階ではまだ子どもなので、成熟を専門学校で待っている、と言うことなのかもしれないがいい迷惑である。専門学校を充実させて大学を減らしてしまうのが日本の教育改革のひとつの方法かもしれない。でも、こんなことを言ったら大学教員の皆さんからは反発があるだろうな。
大学のレベル差は無いが、入るのは日本より難しいと言う。合格率が低いから、と言うのがその論拠だ。
日本の大学とは大きく異なる点が沢山ある。入学試験は専攻分野の専門知識も問う。課題本があり、その内容が問われる。教育学部や心理学部は人間性を問う必要があり、面接もある。
入学者の平均年齢は23歳。大学院も規定年限と言うものはなく、必要単位と修士論文が取れればマスターである。大学へ入ると修士まで取るのが普通だ。公立大学に授業料が無い。大学内の医療が無料になる。公共交通機関などで学割がある。17歳以上の学生には月額あわせて500ユーロの生活援助が受けられる。親の収入は関係ない。返済義務も無い。この援助だけで生活していける。日本のようにアルバイトに精を出して勉強をしない、という国とは違う。
留学生にはチューターシステムがある。チューターというと日本の予備校が導入しているが、大学は大学の学生がボランティアで登録している。生活の面倒を全てにわたってみる役割を持ち、日本の予備校のそれよりも深く踏み込んでいる。大学へなじみやすいような配慮が感じられる。ホストファミリーの紹介がある。

ここまで読んで、「学生にとって何が良いのか」をとことん議論したうえで制度設計がなされていることが感じられる。おそらく、教員に対してもそうなのだろう。日本の大学にはそれが無い。議論の過程で精神論が出てきて、全てをぶち壊して議論はそこで終わるのではないか。思うに、日本が遅れているとすれば、「やる気」で劣っているのかもしれない。例えば、フィンランドには資格試験が余りなく、替わりに「どこで何を勉強した」ということが重視される。日本の学歴社会は肩書きのみの重視である。まさにわが国は「国民総無気力」。

小さな国のため、一人一人の力が重要だとしたフィンランド。方や、人以外に資源が無いのに教育が相変わらず精神論で語られる日本。なるほどこれではかなわない。