玄田先生のブログ

玄田有史氏のブログ「ゲンダラヂオ」に興味深い記述を見つけたのでメモ。
春を前に、公共需要創出策としてホームに転落防止の策を作ってはどうか、との記事。個人的には賛成であるが、誰もこういうところは気付かないんだろうな、と思う。

別の日の記述に1月の労働力調査の結果についての言及がある。
非労働力化した人たちへ注目すべき、という意見。3月に退職となった年配の方々が、不況で再就職がかなわずにいる。団塊の世代に当たるので、数は半端でないはずなのだが、失業率には反映されない。この問題について報道が無いようだ。不況をあおるようなことを報道してはいけない、という配慮なのか。
あるいは単によくわかっていないからなのか。どう見てもそれほど緊急性を要しない新聞記事をいくつか見かけるのだが、何故報道されないのだろう。

玄田先生のかかわる「希望学」についての記事の中に、興味深
い記述があった。
「希望の多くは実現しない。希望は多くの人にとって失望に終わる。希望は文字通り、希(まれ)にしか叶わない望みである。…しかし、希望を持ち、失望を経験することで、はじめて獲得できる希望もある。」
どなたの言葉なのか、先生の言葉なのかは知らないが、含蓄のある言葉だ。
昨今、この恐慌のあおりを受けて苦しむ人たちに「希望を持ちましょう」ということを言う人がいる。しかし、希望の本質がそういうものであるのなら、視力を失った方に「もっとよく見ろ」と言っているのに近いのではないか。

言葉を慎重に選ばなければいけない、と思いながらもつい口にしてしまう安易な言葉がある。苦い思い出がひと山いくらで売れるくらいある。それだけに、そういう言葉を聞くと、つい過敏に反応してしまう。
諏訪6市町村の企業では、当面の社の方針として社長たちが社員を相手に朝礼で「希望」を説いた会社もあるだろう。新聞によれば、自治体の首長たちも「施政方針演説」として「希望」を口にしたところもあるようだ。

根拠の無い希望はただの妄想でしかない。今は、嵐の中でじっと地道に努力するしかないのだから。嵐が吹き止んだあと、生き残って立ち上がるか。努力の姿勢のまま骸となっているか。


残酷な時代である。