公務技術継承の危機


 同書は薄い上に字が大きくて読み易い。本が苦手な人にもお薦め。端的にまとめたという点で、何度も読み返したい一冊になった。
 内容は、行政の中の技術職、いわゆる「技官」、特に土木、建築、造園に携わる公務員に焦点を当てた一冊。主要な論点は、技術者の専門技術領域に置ける人材育成問題がひとつ、もうひとつは外部業者や住民との関係を築くスキルの重要性である。前者の民間でも現場技術の継承が問題になる中、行政の中でも同様らしい。もう一つについてはいわゆる「恊働によるまちづくり」における技術系職員のあり方について示唆にとんだ指摘がある。


<小さな政府論と技官たち>
 「行政がコストを削減しないのに増税はおかしい」などという言葉を聞く。そんなわけで、どこの自治体もコスト削減が錦の御旗となっている。
 コスト削減には様々な手法があるが、「外注」は一つの方法だ。現実の問題として、すでに外注化は行政の世界でも一般化している。多くの行政土木技術が外部業者との連携の上に成り立っている。人員削減によって災害警報の際の待機人員の確保すら難しくなっている地方自治体がある。そうした状況の中では外部業者との連携は不可欠である。専門的なノウハウと知識、技術、設備を有する業者が実際の事業や施工を行い、それをチェックするのが行政職員、というのが現在理想とされているモデルであるようだ。小さな政府論によれば。

<「行政はチェック機能のみ」は机上の空論かも>
しかし、チェック機能は机上の計算通りに働かない事がある。技術系行政職員に専門知識が育っていないのだ。あまりにも削減されすぎた職場に置いては基本的な技術すら身につける余裕も無く、下手をすればクレーム処理などに日々の業務に追われている。アメリカのジョージア州のある市では、市職員はわずか4名であるとのことだ。「計画」「設計」「工事監理」ばかりか自治体政府の本質であるところの「基本構想の策定」までもが企画の完成、運営まで丸ごと業者に委託されている例もある。

 そういえば、大学時代の恩師が日本中の基本構想がだいたい似たり寄ったりなのはそのせいである、と言う指摘をされていた。そのような基本構想がいかに完全無欠であっても何の意味も無い。住民不存在によって作られた基本構想は、箱もの行政のソフト版と言ってよいだろう。

 要は、技術者が育たないのだ。
2005年に発生した耐震構造偽装問題については、原因の一つがそこにあると本書では指摘している。

<受託側にも問題が>
 受託側の技術蓄積にも問題が発生している。団塊の世代の大量退職によって、経験豊富な技術者が減ってしまい、技術移転が難しくなっている。また、受注競争のはげしさと、仕事量が多さによって若手の育成が難しい時代にあり、やりがいを得られずに、あるいは自分の将来に疑問を感じて止めていく若い技術者も多いという。


<恊働によるまちづくり〜技術者版>
 公共事業が市民の求めるものと異なる状況になっている事は、これらの事情が複雑に絡み合って発生しているという側面がある。

 住民参加という概念に疑義を呈している。鴨川WSにおける経験から、公共事業の真の受益者は地域住民であり、行政職員はそこに参加していたに過ぎないと考えたとのこと。
 公共事業完成後にそこに価値付けしたり、更新していくのは地域住民であって、その意味では住民参加ではなく住民主体こそが望ましいと考えたとのことだが、これはもっともな話だ。しかし、多様な価値観と能力を持つ住民をプロジェクトの中心に据えた際に発生する問題は、昨今諏訪地方で官民恊働の事業が頓挫しつつある状況を見れば、一目瞭然である。


 行政職員も専門職務以外は普通の人に過ぎない。同じように住民もそうである。お互いに自分の専門領域を念頭に置き、その分野で力を発揮できないお互いを時に馬鹿にし合っている、それが現在の地域の実情だ。著者は行政側は仕事だから熱心で当たり前、無報酬の住民が何故こんなに熱意を持っているのか、と述べているが、このような見解を持つ行政職員は多いのだろうか。私の知る限り、行政職員は「街の事は住民の問題であり、お前たちが熱心にやるのは当たり前だ」と疑いも無く思っている人が結構いた。

<住民参加型の要点>
行政職員(公務技術者)が必要とする技術は専門領域のものだけでない。著者は以下の4つにまとめた。
(1)住民の願いを引き出す技術
(2)それを実現するための技術
(3)実現できない時には、代案を示す技術
(4)互いに納得できる着地点を見つける技術
しかし、官民恊働ないし住民参加によるプロジェクトは、「一品もの」であって、再現可能なものかと言えば必ずしも無い、と著者は指摘している。考えてみれば当たり前の話で、人と人との付き合いや信頼が再現可能ならば、私たちはロボットだろう。


<説明責任について>
一時「説明責任」という言葉をマスコミが流行らせたが、しかし結局は行政側が言いたいことを言っただけで信頼を得られなかった点についての指摘は、なるほどと頷ける。だいぶ前になるが、下諏訪ダムの車座集会に当時の田中康夫知事と光家土木部長が下諏訪町にやってきた際に住民との質疑応答を聞く機会があった。多くの住民の質問に辛抱強く答えていく同部長は、私は好感を持ったが「ダム反対ありき」の町内世論に加えて反対派の彼の上司が同席する中で、気の毒にも空回りしていた。
 しかし、思い返してみれば、光家氏は行政の言いたい事を言っていたに過ぎず、住民との対話を通した合意形成に臨んで来た訳ではなかった。空回りしたのは当然なのかもしれない(無論、氏の責任ではない)。それにしても、ああいう役割は返す返すも気の毒である。

<マニュアル化が進んだ理由>
多摩ニュタウン建設時に、従来の厚紙に鉄筆で一枚一枚設計図を書いていくスピードではとても追いつかなかった。そこで、何パターンかマニュアルを用意し、それを当てはめていく形で一気に開発を図った。それがマニュアルのはじまりだと言う。
著者の説明によれば、マニュアルにとらわれすぎてはならず、その地らしい開発の方法を模索すべきであり、その方法を見いだす技術も技官の重要な仕事なのだそうだ。近年は地域住民とワークショップなどでその地に根ざした開発携帯を模索する動きが盛んである。形式的にお茶を濁す開発もあれば、より良い官民の関係の中で作られるものもある。全ては一品ものであり、再現は不可能だ。マニュアルは再現を可能ならしめるためにあり、その意味では矛盾した存在である。両者のバランスをいかに取るか、これからの技官は難しい課題を突き付けられているのではないか。