東アジアの中の中国史(放送大学教育振興会)2

第2章まとめ。

中国の古代文明の研究は、帝政時代から既に一定の成果を上げてきた。しかし、1970年代に入り劇的な変化を遂げた。「一元論」から「多元論」への転換である。すなわち、一つの文明が最初からあったのではなく、黄河、長江流域などに発生したいくつかの文明、文化が紀元前3000年くらいに交流を通して、共通の文化要素を持つに至る、という過程をもっているということである。

交流の活発化を示すひとつの証拠としては、面積数十ヘクタールにおよぶ大型城壁集落が出現している事である。農耕技術進歩による人口増大の他、争いが生じていた事を示す。

長江流域文化は紀元前3000年後半に衰退し、二里頭、二里岡文化が台頭した。この文化を夏王朝や殷王朝のものであると考えられている。殷が直接統治していたのは都城周辺に限られ、大邑を中心とした小邑の連合体であったと考えられている。王が要所に監視拠点を設け、酒興的儀礼を通して支配を行った。

周時代は、封建制度が成立する。王の一族、有力者、土着諸公、功臣などに封土を分け与える事で世襲の諸候とし、諸候はさらに過信に土地を与え、宗教的儀礼によって統合されていた。

異民族(犬戎)の攻撃によりこのシステムは崩壊し、春秋戦国時代に入る。春秋時代は社会経済の変化とともに、政治制度も変化する。鉄器や牛耕の進歩により、農業生産が向上した。小農民(五口の家)が自立し、氏族制度や封建制度が崩壊した。諸候の争乱の中で、各国は富国強兵をはかり、産業を振興した。王を勝手に名乗り、県を置いて直接支配をする領域が増えた。広域的な文化交流が置き、儒家墨家、法家などがあらわれた。

秦の統一後は、大家族を分解して小家族とする小家族の法、軍功爵、相互監視策などを駆使して君主権力を拡大した。東方六国地域の反発感情は、陳勝呉広の乱をきっかけに滅亡する。

皇帝の登場は、春秋戦国で崩れた封建制にかわる郡県制度がつくられた。しかし、封建制度が完全に無くなった訳ではなく、周辺民族に王号を与える事で中華支配体制に組み込む事がなされている。両方の制度を併用していると考えて良いと思われる。直接的郡県統治と、間接的封建統治を併用した方法をとっていたのである。