「ゆとり」批判

ネット上で「ゆとり」という言葉が一人歩きし始めている。
最近の教育改革後に学校時代を過ごしている若者たちを罵倒する際によく使われているようだ。

ニートなどで問題となっているのは、詰め込み型教育で粗製濫造された私の世代である。いわゆる「ゆとり教育」が始まって以降の学生が抱える問題は、社会が構造変革を起こし、これまでの価値観が揺らいでいる最中であり、教育だけが問題だった訳ではない。
「教育の質の低下を招いた」「学力の低下を招いた」と断ずるのは非論理的であり、あまりに情緒的な反応ではないか。教育カリキュラムを大きく変更し、時間をかけて成果を出し始めた学校は、再び方針を転換しようとする国内世論に当惑しているのではないか。教育は長期的なものであり、覚悟と理念を持ってあたらなければならないもんどえある。右往左往している大人たちの方がはるかに「ゆとり」ではないか。

私たちの世代は、詰め込みのマニュアル教育が徹底的に行われたため、突発的な事態に対応できる能力が低いと言う批判を受けた。そのことの反省から、現場の自主性にある程度任せて行く方向に転換したはずだ。当然教育は教師や学校、それを支える地域、そして無論生徒次第でよくもなれば、悪くもなる。予測できた事ではないか。いまさら何を騒いでいるのだろう。

実は、焦っているのは、自分たちの覚悟のなさを指摘された「ゆとり」という言葉を口にする人々なのだろう。