「自分のために」に真実はあるか

他人を完全に理解することはできない。
ゆえに、相手のためを思ってしたことがおせっかいになることがある。
短期的に相手のためになったことも、長期的にはそうでないこともある。

だから「他人のために」などは、偽善であると言われる。
だから「自分が楽しいかどうか」を、基準にすべきという意見がある。
そういう考えに立脚すれば「誰かのために」などという考え方をする人に、「お前はいったい何様なのだ」と思ったりもする。


私はそうは思わない。

人が人を気遣うことでこの社会は成り立っている。
誰かが誰かのために生きることが、この社会の成り立ちの基礎となっている。
たいていの心配は、おせっかいになることが多いだろう。
それでも、人に気遣わない世の中より、おせっかいな世の中のほうが良いと思う。

そもそも、「私は私」とみんなが思い始めたら、「私」という存在そのものが、成立しなくなるのだから。

相手のことを気遣ったつもりが大きなお世話だったりして、相手を傷つけたりすることがある。
それでも、朴訥と他人のことを考えていられるような、そういう人で私はありたい。
これまで私が傷つけてきた、すべての人たちのために。

(どこかで聞いたことのあるフレーズだが)

新編 宮沢賢治詩集 (新潮文庫)

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