当事者が「障害本」を読むとどうなるのか

bookmeter.com

 

岡谷市内の読書会「読み紡ぐ会」に参加してきた。

テーマ本は3つのお話が収録されている。全て知的なハンディを抱えている人についての小説だ。

1つ目の「こちらあみ子」は幼少期から中高生までの、障害者当事者の目線で描かれている。2つ目の「ピクニック」は大人の話。障害のある人を同僚に持った人の視点で描かれている。3つ目は高齢になって認知症と思われる症状を起こした方のお話だ。

読書会ではさまざまな感想が聞かれた。どのお話もハッピーエンドではない。日常がいきなりぶった斬られるように終わる。「救われない」「ざわついた」という感想があった。

私は感想を言えなかった。親しい友人が知的障害者であって、家族があみ子の家のようになっていたことと、自分自身がADHDとして生きづらさを抱えていることがどうしても「小説」として読むことを許してくれなかった。

あみ子が引き起こす周囲の混乱を「こういうことってあるよね」と感じたり、別のことに囚われて目の前のことを忘れる描写は「俺はこんな風じゃないな」などと評論家目線で読んでしまった。

あみ子の周囲は不幸であるかのような描写がある。ずっと不幸なわけではない。けれども、やはり究極的には救われない。今の日本の制度では多くの障害者は制度を利用しながらの自立が原則であり、財政状況からしても国民世論からしてもその状況が変わる見込みがないからだ。

岡山県総社市の市長が障害者を持つ家族や当事者に「あそこまで泳いでいけば何とかなる」という見通しを作るのが政策である、という意味のことをインタビューで答えている。逆説的に言えば、私たちの暮らしは日々溺れ続けているようなものなのだ。

あみ子は救われることはないだろう。本人が理解できておらず、周囲がひたすら混乱する状況ばかりを小説は描いていたが、本当は七瀬さんに疑問を口にした若い同僚のような人に強烈な差別を受けた経験が何回もあり、その結果人格も思考能力も経済的にも歪んだ人生を送ることになるのだ。

私は仕事である種の間違いをよく繰り返す。「何故確認をしなかったのか」と呆れられる。「そういう特性だから」などという説明は通らない。「それなら辞めてくれ」と言われるだけだからだ。間違いをしないために問題の定義づけを変えたり、チェックシステムを自分なりに作って切り抜けるしかない。

私の友人は漢字がほぼ読めない。九九も言えない。それでできる仕事は限られている。とはいえ多くの障害施策が適用されるほど重度でもない。

私たちはひたすら溺れ続ける。あみ子のように。