今年「語り」の場を地域で作っていこうと思っている。
この10年くらい、まちづくりの現場を遠くから眺めていた。
「個人情報に関わる部署に配属されてしまい、中に入って活動がしにくくなってしまった」と言うのが理由の一つだが、見ていてずっと思っていたことがある。
 
「それ、本当に誰かが欲しいと思っているの?」というしごとが随分増えてしまった。
どう考えてもコミュニケーションを怠ったとしか思えないような、雑なしごとが乱立してしていないか。
差し障りがあるので具体的に「なにが」とはあえて書かないが、作られた雑なしごとの結果を維持するために、一つ一つは大金でなくても少なくないコストが割かれている。累積すればかなりの大金と労力が吸い込まれている。
本来なすべきだったことに、力が割かれなくなってしまった。
 
「国のリーダーが雑な意思決定を見せつけることで、そんな空気を作った」と言う点はあったと思う。地域にはミニチュア版の安倍菅が溢れている。飲み会のノリや誰かの雑な考え、あるいは上への忖度(実際には上の人はそんなことは思ってもいない)で押し進めてしまった結果、誰も望まないものが出来上がっている。
 
彼らが結果を急いだのには背景があるだろう。
平成中期の「参加型まちづくり」で結果を出した地域が全国各地で見られた。
官主導で行われてきたハコモノ行政へのアンチテーゼとして、それらは脚光を浴びたと思う。
意味がわからない「なんとか協議会」などの議論にこだわらず、まずは結果を「見える化」したことで、閉塞していた状況を大きく動かすことに成功した。
 
その成功事例が各地に紹介され、少なくない地域が「結果を早く出すことが大切なのだ」という結論に飛びついてしまった。
 
 成功した地域では実際には議論がし尽くされたものが多い。あるいは、すでに議論の必要もないほど地域の合意が取れていたものもある。
そして、どの成功例を見てもレベル合わせを慎重に行いながら進んだことが見て取れる。
 
その過程を知らずに結果だけを追い求め、自分の理解できる範囲で挙げた成果に酔っているような事業がとても増えたと思う。
特にもっとも懸念すべきは、ここ10年の特徴は、その間違った結論を上手に言い訳する「説明」が上手な行政職員が非常に増えたということだ。政治家もその説明のおかしさを追及せず、それどころか「説明をしない」ことを正当化する政治家が実力を持つようになってしまった。
 
幾度となく「それはおかしくないか」と反論したこともあったが、得体の知れない厚い壁に阻まれてしまった。
彼らに対抗するのは、誰かと丁寧に交わして作り込んだ自分の言葉しかないと思っている。