私たちにとっての「グローカル化」とは

「世界標準」「グローバリゼーション」という言葉が一時世界を席巻した。
一時は、「世界標準にあらずんば人に非ず」とまで言わんばかりの勢いだったが、最近はこれに対する感情的な反発が各地で起きている。

我々はどうあるべきなのだろうか。
東西冷戦の終結とIT化の波から逃れることはできない。一部に「世界標準」の押し付けに対する感情的反発(ユニクロデフレ原因説など)があるが、反発してどうにかなるのだろうか?どこかの大臣のように「第三の道」などと言ってみれ
ば、事態が消えてなくなるのだろうか。
私たちは今、そうした状況に対して、自らがどうありたいのかを考える時期が来ているのだと思う。こうした動きを「グローバル」と「ローカル」をあわせて「グローカル化」と呼ばれるようになってきた。Think globally, act locallyという言葉は、その言葉の意味を示唆しているが、不十分だ。

EU成立による全欧州共通施策が欧州全域に施行された時、フランスでは母国語であるフランス語を守ろうという運動が起きた。これに呼応して教育現場でフランス語教育が強化された。反グローバリズムというわけだが、ところがこのことが却って反対者の意図せざる方向に進んでしまう事案が発生した。つまり、フランス語教育強化が国内に残る多数の少数言語を危機に陥らせているというのだ。(放送大学大学院テキスト「総合情報学」・・・・だったかな?)

どうしてこんなことが起きたのか。
ここでは、このことを考えることで、グローカル化とどう向き合えばいいのかを考えてみたい。

グローバル化」を地域社会の側から見ると、地域社会の仕組みや価値観の変容を要求する社会的、経済的圧力と言い換えることがでる。「世界標準」に主導権を取られればジリ貧なので、自前の資源を使って自己主張をしなければならない
。つまり、グローバル化の波に流されるのではなく、「折れ合っていく」ポイントを地域住民が主体的に見つけ出すことが必要になった、ということである。グローカル化とは、異質な価値観と「折れ合っていく」過程そのものであると言える。

しかし、「折れ合っていく」ことはなかなか難しい。自分自身を変化させることについて、私たちはとりわけ苦手としている。そればかりか、今回は自分ひとりの問題でなく、地域の大勢の人の合意形成が必要になるのだ。

グローカル化において、地域住民の課題は以下のように整理できる。
(1)受け入れがたい外からの価値観と、どう向き合うのか?
(2)有無を言わさない変革要求への感情的反応のコントロール
(3)自己変革を強いられることへの合意形成

それぞれの課題についての対処法は後日考えてみることにする。