行動の原点

悲しみやコンプレックスを行動の原点であると断じるのは、非常にわかりやすいが、事実はそんなに単純な物ではないと言われた。本当の楽しみを知っている事も、時に理由になるだろうとも。

それは一つの真実だろう。
わかりやすい物に安易に迎合数するは良くないだろう。

しかし、困難を乗り越えたり、ネガティブな強い圧力、しかも人格を否定されるような力にも平然としていられる根拠は、楽しみや喜びなのだろうか?理不尽に追いつめられた者が耐える力の根拠は、より深い悲しみや、絶望なのではないか

革命が成功する前に、何度となく「暴動」が発生する。
後世は稚拙な「暴動」と評価するが、当事者達は至って真面目だったのだと思う。

成功した革命は、人々の喜び楽しさを描いてみせ、一時の苦痛を乗り越える決心をさせる事に成功した物なのだと思う。反対に、社会の多数派を動かす事に失敗した革命を「暴動」と言っているだけではないか。

失敗した革命の原因を教科書や歴史家は詰めの甘さや社会の需要を読み取りきれていなかった事だと評価する。
中国の陳独秀は都市プロレタリアートの組織化を図り、失敗した。中国の大多数は農民だったからだ。だが、その時点で追いつめられ、行動に移す力を持っていたのは都市の工場労働者達だったのではないか。陳は、彼らに明確な夢を描いてみせる事もできなかったかもしれない。農民に「大地主の搾取を終わらせる」と言った毛沢東のように。しかし、それでも立たなければ行けなかったのではないか?陳自身がそこまで考えたかどうかはわからない。だが、上海の蜂起に行動をともにした労働者達は、追いつめられて立ったのだと思う。その彼らを支えたのは、将来への楽しみなのだろうか?成算の無い戦いへ自分を投じるのは、将来への喜びであるはずが無い。

少なくも私はそう思う。