中国語の宿題のために「君たちはどう生きるか」について再作文

中国語の作文の宿題(自由テーマ)のために、例の映画について書いて見ることにした。言いたいことが複雑なので、まずは日本語の原稿を作ってみたが、せっかく書いたのでブログにアップしておく。

 

<ここから>

多くの人は自分の子に、世界を俯瞰して主体的に自分の人生を選び取れる子になってほしいと願う。しかし、どうすればそんな子に育つのかは実に難しい問いだ。そもそもほとんどの人は自分自身がそんな立派な人物になっているのかもわからない。少なくも私は自信がない。

 

君たちはどう生きるか」という映画が7月に上映された。映画監督の宮崎駿の作品である。上映にあたり宮崎監督は「同名の古い小説を原作とした」と発表した。吉野源三郎が1937年に書いた小説だ。小説の内容は思春期の高校生の成長物語だが、人としてどうあるべきなのかを鋭く問う。戦時中の発禁処分を受けたが、戦後50年代に復刊した。主な読者は学生である。平易な文章で書かれた小説だが内容はとても深く、十分理解できる人は多くないと言われている。それでもこの本の影響を受けた人は時代をこえてとても多く、私も高校生の時に先生にすすめられて読んだ。私に世界と自分とのつながりを知る機会を与え、どう生きるべきかを考える習慣をくれたのはこの本だ。宮崎監督もインタビューで若いころにこの本の影響を受けたと話しているが、「やはりそうか」と私は思った。

 

「今回の宮崎映画は難しい」「何が言いたいのかわからなかった」という意見をよく聞く。「小説と映画の内容は関係ない」という意見もある。様々な意見や感想はあると思うが、私は小説と映画の両方を見て、小説と映画の関係は私にはすぐに分かった。

 

小説と映画の主人公はどちらも中学生だが、小説の舞台が1930年代の日本であるのに対して、映画の舞台は40年代の半ば戦争の最中である。小説では主人公とおじさんの対話で物語が進むが、映画は主人公が不思議な世界に迷い込む、宮崎映画ならではの冒険活劇である。ストーリーを表面的に見れば両者は全く違う作品だ。だから映画や本のストーリーを楽しむタイプの人には両者の共通点はわかりにくいかもしれない。

 

しかし、自分自身の進む道に少しでも迷ったことがある人ならば、両者が同じテーマであるることにすぐに気づくのではないか。ストーリーや背景の違いはあるがどちらも主人公の成長物語なのだ。宮崎の映画は少年や少女が世界や社会を救う物語が多かったが今回はそうではない。不思議な世界に紛れ込んだ主人公が困難や出来事を乗り越えることによって、成長することに物語の重点が置かれている。自分自身の内面の成長に

 

30年代の日本の若者の悩みは、2020年代の若者のそれとは違う。小説の中の話題をいくつか挙げてみると「貧しい友人との出会い」や「卑怯なふるまいをした自分への許し」、「立派な英雄とは何なのか」などを主人公はおじさんとの。しかし、これらの20年代では違う形をしているだろう。映画の主人公は牧真人というが、彼が冒険に旅立つきっかけをつくったアオサギへの不信感と許容、継母との間のしこりや、亡くなった親との共闘と別れ、残酷に人の魂を食い荒らすペリカンにやむを得ない事情があるという人の業を知ることなど、いずれも現代的な課題に置き換えられている。

 

しかし、二人の主人公は同じように問題に当惑しながらも、自分の力で悩み必死に立ち向かう。

映画の中のラスト、主人公は迷い込んだ不思議な世界で行方不明になった大叔父に出会う。大叔父は主人公に自分の事業を引き継ぐように要求する。現実世界は厳しく、この不思議な世界で一生を終えるのも悪くはない。しかし考えたうえで主人公は大叔父の要求を拒否し、「自分のすることは自分で決める」という道を選んだ。結果的に不思議な世界は崩壊し、主人公は仲間たちと別れて現実世界に帰る。

なぜ主人公がそう考えたのか、この文章を書いていて私はやっと気づいた。

映画の序盤で主人公が小説の「君たちはどう生きるか」を読んでいるシーンがある。小説で吉野は若者に個人と世界とのつながりを示唆したうえで「あなたはどう生きるのか」という主体性を問うている。この小説を読んでいたから映画の主人公は大叔父の誘いを拒否し、自分の世界に替える道を選んだのではないか。

 

ところで、著名な監督が映画の原作にしたために、日本中の書店の店頭にこの古い小説が積み上げられている。難しい内容のこの本はとうとう180万部の売上を達成したそうだ。こんな古い本が爆発的に売れることは非常に珍しい現象である。小説は岩波文庫から出版されているもののほかに、子どもでも読めるように漫画も出ている。この本と映画が、この本を必要としている多くの若者の手に私は願う。

「イスラームからヨーロッパをみる」(内藤政典著)でイスラムの勉強

www.e-hon.ne.jp

 

本の要旨をまとめる。感想や補足は所々に( )で書くこととする。

 

ヨーロッパのムスリムイスラム教徒)を概観した専門家による本をずっと読みたかった。

外国人労働者受け入れ反対論者の中にいる著名人の多くは、欧州のイスラム受け入れによる治安悪化を理由としているからだ。著名人の多くは伝聞や個人の感想を論拠としている。実際のところどうなのか、よく知る必要があるだろう。(日本社会が今後イスラムとどう向き合うべきなのかを考えてみたい)

 

21世紀、中東の難民が欧州に向かったことで欧州とイスラムの共生が困難になった。

アメリカはかつても今も移民により成り立っている国であり、宗教の自由は国の基本であった。トランプ大統領はこれを破壊し、移民の国としての国の成長と比較的うまくいっていたイスラムとの共存の将来に大きな影を落とした。

欧州はすでにいる住民に国境線を引くことで国を作った。国内に住むイスラム教徒は世俗主義と折り合いをつけてきたが、80年代からイスラム世俗主義から距離を取り始めた。(イスラム諸国の国力向上も背景にあるか)

ドイツ、フランスには500万ずつ、イギリスが300万、いたりあに250万のムスリムが住んでいる。

ベルリンのクロイツベルグにはつい10年前までトルコ人街があり、ドイツ語が聞こえなかった。2015年現在ではこぎれいな街区に変わった。近隣のかつてのトルコ人街にはシリア人が多く住み、カフェにはシリア人難民が多かった。シリア人は独立心が高く、店を構えて経済的自立をするものが多かった。

2005年、パリのクリシー・スー・ボワで暴動が起きて以降、ひったくりなどの犯罪が多発し警察と市民の間には緊張関係が生まれた。通行中の車がいきなり覆面パトカーに停められる中にいた人が引きずり出されるような光景が見られる。

東欧のムスリム比率はコソボが一番高い92%、アルバニア82%、モンテネグロ19%と旧ユーゴ国家は比率が高い。オスマン帝国時代からの住民が多かったが、近年では移民も多い。ユーゴは社会主義国だったためムスリムアイデンティティの前面には出なかった。

独立後のサラエボにはアラブから北アフリカ諸国のムスリムが集まりつつある。2018年だけで5万人がボスニアに来た。多様な国からの移住はイスラモフォビア(イスラム嫌悪)の存在を知っている。東欧北部のポーランド等はイスラムが非常に少なく、同嫌悪の舞台となることが目立ってきた。非常に少ないところで最も激しい嫌悪が起きている。

 

1)フランスのブルカ禁止法

顔を覆うブルカ、眼だけ出すニカーブが公共の場で禁止となった。顔を出しているヒジャーブも大学を除く公教育の場で禁止となった。

フランスは当初規制に否定的だったが、フランス共和国のライシテ(世俗主義)に反するという批判から規制強化に傾斜している。

ユダヤ教徒のキッパ(帽子)はユダヤ差別の歴史から禁止できず、キリスト教徒が身に着ける十字架も服の下ならOKという。

 

2)イスラム教徒の戒律について

現世では処罰されない

最後の審判で罪のひとつとカウントされる

要するに極楽に行きたいのであれば罪を犯すな、ということ。その意味では仏教に少し似ている。

 

3)イスラム諸国で被り物が復活しつつある背景

80年代にはイスラム諸国で西欧化が進んだことから、服飾などの欧化が進んで一時被らない女性も増えた。しかし植民地時代以来西欧化が民主化ではなく軍事独裁により進んだことにより、生活文化の欧化が進行した上流階級とイスラム文化とつながった下層階級に分化し始めた。イスラムの教えは心に安寧をもたらす特徴があり、母国の下層階級や移民社会はさらにイスラムに傾斜することになった。若い女性も被り物をするようになった。自らの意思で被る女性を批判することは妥当なのか。

これに対し、欧州では①女性抑圧②過激派に利用される③世俗主義(社会と宗教を分離すること)に反することから被り物を否定する

①も②も言いがかりの域を出ず、正当性があるとすれば③である。「市民が精神的圧迫を受けない」ことが公教育の場で鍵となる。この原則さえ守っていれば、個人は信教の自由を守られなければならない。しかし、イスラムは個人の生き方を規定する内心の問題だけでなく社会全体を規定する特性を持つ。信仰実践を内心だけに留めることができない。極右がライシテを根拠に移民を攻撃した際に、どうしても衝突してしまう。そして差別だと認識しにくい構造となっている。

かくして、イスラム女性は二重の敵意に晒されることになった。家父長的なイスラム社会で外に出るためには「戒律を守っていること」で正当性を得ていたが、外に出れば今度は戒律を守っていることで敵意に晒されるようになった。イスラム男性は外見的にはわからないので、敵意が女性ばかりに向けられるという特異な状況が起きている。「覆いを取れ」と社会が要求することは、イスラム女性の羞恥心を刺激することから社会がセクハラを行うに等しい。なお、イスラム諸国の男性トイレの小用便器には隣との仕切りがあるか、個室しかない場合がある。日本のように仕切りを設けない国では個室に入る人もいる。

 

4)西欧諸国別 服装への対応

イギリス

長い植民地時代を経ているため服装の否定が危険なことを熟知しているため寛容だった。しかし、治安の脅威だとする政治家が近年登場しつつある。

例:シク教徒のターバン

ドイツ

2009年ドレスデンエジプト人のマルワ・シェルビニという女性が殺害される。公園でヒジャブ着用を執拗に侮辱されたためこの男を訴え、男は起訴された。法廷で男は18回にわたって彼女を刺し殺され、制止に入った彼女の夫は警備に撃たれるというあり得ない不祥事が起きる。報道はなぜナイフを持ち込めたかに終始し、ヘイトクライムであることを見逃し、かつてユダヤを虐殺した問題と同根であるという洞察がなかった。また、修道女やユダヤ教徒を同じ扱いをすべきだという意見も出なかった。著者のインタビューで「ドイツはキリスト教の国だからイスラムは許せない」などという声も上がっていた。

デンマーク

2018年に罰金刑つきの顔面を覆う被り物禁止の法案を可決。左派の社会民主党まで移民規制に同調。非西欧の移住者が集住する地区をゲットーとし、非西欧系の率を上げない措置を取る。反イスラムを主張する「強硬派」「新右翼」という政党が登場。デンマークからすべてのムスリムを追放することを主張している(これ、ナチスそのものじゃないか)

スウェーデン

デンマークの動向の影響を受ける。左右両党とも過半数を取れず。原因は排外主義極右政党のスウェーデン民主党の躍進である。

ノルウェーフィンランド

2016年顔面を覆うタイプを教育現場でのみ禁止。社会主義左翼党は教師の着用に賛成したが生徒については反対した。他の左派政党は反対した。フィンランドでは排外主義のフィン人党が17.5%を獲得。

オランダ

2016年下院議員の多数が公共施設での顔面を覆う被り物を禁止する法案を可決(頭髪だけならOK?)。911以降イスラムに対する宗教的寛容が機能しなくなる。

スペインとイタリア

全国レベルでは規制は導入されていないが一部州などで導入されている。

5)被り物への誤解

クルアーンコーラン)ではフルフェイスまでは求めていないので、多くのムスリム女性はニカーブやブルカは着用しない。ブルカのみを禁じてニカーブやヒジャーブを許容する方向も採用しなかった。サルコジ大統領が女性の隷従化の象徴だと議会演説で発言した。

2014年から18年にかけてのテロ事件で「監視カメラをすり抜けたらどうするのか」という批判がおき、セキュリティを理由に規制された。顔が見えるスカーフやヒジャーブは問題にならないため法律上は許容されることもあったが、嫌悪感情には線が引かれなかった。結局セキュリティ上の理由ではなく、排外主義の道具でしかない。

6)風刺画問題は表現の自由問題なのか

しばしばムハンマドを揶揄する風刺画が描かれ問題となっている。ムスリムの憤激を買って襲撃事件も起きた。

そもそもイスラムでは偶像崇拝が禁止なので、ムハンマドの絵に対しても目を背ける。それが中傷的なものでも、見ること自体をしないのであまり問題にはならないはずだ。ではなぜ怒ったのか。明らかに差別とヘイトを目的とした意図があったからだ。神の使徒を揶揄し、嘲弄することを目的とし、それを流通させたからだ。

かつては他者としてのムスリムに寛容だった彼らは、寛容の精神を失ったのではない。「ムスリムが不寛容だから排除すべきだ」と考えているのだ。風刺画に対して起こった暴動を根拠にムスリムが不寛容であると結論づけた。

 

続く

(被り物への規制が日本でも起きえるのだろうか?ブルカとニカーブ、ヒジャーブ、スカーフの違いくらいは理解した上で規制の議論をしてほしいものだ)

君たちはどう生きるか(小説と映画、漫画の感想)

今日参加する予定の読書会で話してみる予定の内容をメモしておく。

 

映画での導き手役として登場した青鷺。主人公の日常を切り裂くように登場し、何を考えているかわからない美しさがあった。

しかし、乱暴で陰湿で、狡賢くもあった。確かに自分自身を導くものは必ずしも清く美しいものばかりではない。トリックスターでもあり時には敵かもしれなかった。

味方かどうかわからない鳥に連れられて、人生や物事(どちらも同じような意味だが)の深淵に主人公は踏み込むことになる。けれども、その導き手に助けられることが度々ある。青鷺の羽で作った矢は青鷺を貫く。穴のあいた嘴では飛べないと言う青鷺のために、木を削る主人公。どちらのエピソードも、自分を導くものの姿は自分にしか変えられず、自分しか守ることができないことと被って見えた。私自身のことを振り返ってみれば自分を焼き尽くそうとした時には、敢然と立ち向かわなければならなかった。

 大人になってみれば「導き手」のグロテスクさすらもコミカルに思えてくることを、思春期の当時、私は全く気づかなかったことを思い出した。今から思えば「何をそんなに苦しんでいたのだろう」と思う一方、「それは必然だったのではないか」という思いも一方にある。

 

小説版「君たちはどう生きるか」で上級生に囲まれた友人のために声を上げられなかったコペル君のシーンは、初めて読んだ時には胸を抉られるものがあった。自分自身をどうしても許すことができないコペル君。その自責の念から学校を休み、自分が嫌になってしまう。私自身は決して勇敢な方ではない。何度も卑怯な真似をしてきた。そのことを思い出しては何度も本を閉じて読むことを中断したのを覚えている。

その時コペル君が仮病の病床で母の話してくれた話は、母の若い頃の「後悔」の話だった。階段を登る年配の女性に手助けできなかった小さな出来事に過ぎないが、母はずっとそのことを後悔していた。しかし、その後悔を却ってよかったこととして肯定的に捉え、母の今を作っていることをコペル君は聞く。

後悔は決して美しいものではない。グロテスクで、屈辱的で、羞恥を伴うものだ。映画の青鷺のようなものかもしれない。私自身を振り返ってみれば、私を導いているものはいくつもの「後悔」なのかもしれない。

 

学生の頃を振り返ってみる。小中学校と勉強が非常にできた私はそれを頼りに自我を形成し、体育の授業での屈辱を乗り越えた。しかし、テストの点を根拠に他人より優れていると思い込もうとして自我を保ったことが災いし、高校に進学して同レベルの人に飲み込まれた時、それは弱さとして露呈した。

当然の成り行きと当然の帰結として私は自分が何者なのかを見失ってしまった。中学まではあれほど勉強していたのに、ある日私は勉強することを止め、学校も休むようになった。

 

ちょうどその時、この小説を紹介されて手に取った。

 

「自分はどう生きるべきなのか」ではなく「君たちはどう生きるのか」という幾分挑発的に聞こえる題名に私は見事に引っかかったのだと思う。

 

高校生は世界の中心は自分ではないことを知る年代だと言われる。

地動説を唱えたコペルニクスから「コペルくん」となづけられる主人公。「客観性を身につける」ことを象徴させるエピソードだと思う。また、粉ミルクの缶詰を通してたくさんの人が関わっていることを知る。誰が作ったものか知らないまま使っている現代。身近なものから今まで気づかなかったことに気づく。

浦川君の家に行った時のエピソードは、最初に読んだ時からずっと印象深く心に残っている。何かを学ぶチャンスを持てなかった人々の存在。その人たちへの寛容さの必要性。

私は私が努力したことによって良い成績を取ったと思っていたが、両親がいて仕事をしていて、どちらも病気でなかった。少なくも高校の途中までは、運が良い方の環境の中にいた。頭では分かっていたが、そのことに改めて気付かされた。

大学にほとんどまぐれで受かってしまったが、自分自身の幸運性に気づかない人々がメインストリームになっていく世の中に漠然と疑問を持った。私は、環境に恵まれなかった人たちのためにどう行動すべきなのだろう。今から思えばできることは沢山あったのに、あの時はいくら考えてもわからなかった。

 

この本に出会ったあの時からこの問いは、今も私の中にある。

 

大学2年の時。

中国の人々への差別的な文句を店頭に掲げたパチンコ屋にショックを受けて、ほとんど衝動的に休学と留学を決めた。なぜそんなことをしたのか帰国するまでわからなかったが、社会教育のゼミに出会って自分を見つめ直した時、私は自分が深く怒っていることに気がついた。そして留学で得たことは、多くの人に支えられて1年間の留学期間を無事終えられたことそのものだったことにも気がついた。

 

大学を卒業して就職に失敗し、全力をかけた公務員試験に失敗して東京のアパートでアルバイトをしながら食い繋いでいた時、将来に絶望して一時正気を失いかけた。それでも正気を保っていられたのは、この問いを常に持ち続けたからだ。

 

30歳を目の前に、役場への転職に成功した。

国保の7年、徴収部門の4年間で浦川君のような人と大勢出会った。漠然とこの町での私の役割が、観光振興やまちづくりなどではなく、ケースワークや対人支援なのだと気がつくには十分な経験を積むことができた。うまく行った時もあるが、窓口で声の掛け方に失敗し、助けられなかった人たちのことは一生忘れない。強い自責の念が時々込み上げてくることがある。

けれどもおかげで観光政策に傾斜しがちな町の在り方に疑問を持つことができた。

小説の中で、人類の発展に寄与しなければ本当に立派な人とはいえない、というのがナポレオンのエピソードの中で語られている。どんなに努力しても、この街の発展に寄与しなければ意味がないのだ。

 

こうして私の人生は、私だけのものではなくなった。

この本の存在は大きかったが、そう思いたがっているだけなのかもしれない。

 

「誰かのために、行動しなければならない」ということをいつも思っている。

このまちでこれまで何が起きてきたのかを知りたい。

小説にある通り、先人たちのことを勉強しきった先にこそ、発見がある。

 

この街にとって何が必要なのかを、私はこれからも考え続けたいと思う。

映画「君たちはどう生きるか」(ネタバレ)

仕事終わりに映画を観てきた。

以下、ネタバレあり。気になる方は読まないでください。

 

思いついたところを書いておく。

 

ストーリーは思春期の主人公の成長期でもある。

最初はまるで敵のような青鷺に導かれ、あちらの世の中に踏み入れる。青鷺は何の象徴だろう。私だったら高校で失速した勉強とコンプレックスの原型を作ってしまった体育だろうか。結局呪いのような両者は中国語の世界に私を導き、強くなれない人々への共感力を与えてくれた。「青鷺」は呪いのようでもあり、自分の追い求める理想でもあり、夢でもあるのかもしれない。確かに3者は似たようなものだ。

主人公は青鷺を射抜き穴を開けた。その穴は開けた者にしか治せないと言う。木を慎重に切り出して穴に嵌め込む。元通りにはならないが欠けた思いは自分の手で直す。

 

傷ついたペリカンとの対話。憎いはずのペリカンにも事情があることを知る。善意のみでは生きられない。主人公はその死を弔う。

積み木のシーン。社会を自分で作ることを学ぶ。

現実世界で継母を見舞い、そっけなく帰って来てしまう。

自分には関係ないモノだと思っていたのだろうか。

あちらの世界で継母の部屋に入り、その思いを知る。嫌われているのではないかと考えていたのは、継母も同じだった。肌を切るような紙切れに引き離される時に、咄嗟に「夏子お母さん!」と呼びかける。

一人で逃げ帰ることもできたが、継母を連れ帰ることにこだわる主人公。家族も社会も自分の力で作ることを、人はこの年代に学ぶのかもしれない。

ヒミは火の神のようでもあり、卑弥呼かと思ったが主人公の母親だった。ラストシーンで別々の扉を開き、自らの運命を知りつつ主人公の母親になる道を選ぶ。

傷跡を大叔父に見せて自分の罪の象徴であると言う。小説「君たちはどう生きるか」でコペル君が友達への裏切りを乗り越えるシーンを思い出した。傷は誰にでもある。その傷を持つことで、一つ強くもなれる。

 

宮崎アニメに出てきたモノがあちこちに出てきて面白かった。

大叔父が守る?石がタタリ神(もののけ)そっくり

もののけに出てきた木霊を可愛くしたようなやつが出てきた

インコの目を逃れて這い回る通路にいるゲジゲジみたいなやつが、ナウシカにもいた。

ハウルの動く城みたいな建物があった。

屋敷の使用人たちは湯婆婆みたいな人がいた。キセルでタバコを吸っていたお爺さんも、あんな人が湯屋にいたな。

恐ろしい状況にも毅然として歩みを進める主人公は、宮崎アニメによく出てくるヒーローみたい。パズーであり、アシタカであり。

船乗りのキリコはラピュタの親方の奥さんを思い出した。力強い女性。

 

大叔父のような人をどこかで観たんだが、、、誰だったかな。ドーラでもないし。

出演者が家族や血縁ばかりで、それ以外は脇役だった。思い切って余計な登場人物は削ったのだろう。

 

それにしても、屋敷の老婆の声優が豪華でびっくりした。

とりあえずこのくらいにしておこう。

保険証廃止で現場はどんな困難を抱えるのか

 保険証を廃止し、個人番号カード(マイナンバーカード)に統合することを国が推進している。ネット上には感情的な反発と反発への反発が見られるが、保険証を扱う人々の声がほとんど無視されている。私は保険証行政に7年以上関わった実務者の立場から、今回の国の動きを強い危機感を持って注視している。

 保険証廃止に賛成する人々の多くは実際の運用状況を自分の範囲でしか知らない人がほとんどだ。これは、医療などでもしばしば見られる現象で、自分が高齢になり病気になるまでは「高齢者に無駄な医療費が使われている」と信じている。現実的にはすでに無駄な延命などはされていないし、意味もなく医院の待合室にいる高齢者などはいない。健康保険がそのような診療を認めていないからだ。家族が病気にでもならなければ困難を具体的にイメージできる人は多くないのだろう。

 しかし彼らは今回の番号カードへの統合に否定的態度を取る人々を「老害」だと断じてしまっている。「新しい技術と高齢者の問題」だと認識し、こうした高齢者は切り捨てるべきだと信じている。介護や医療が高齢者のみで完結していると思っているのだろうか。

 保険証廃止で最も困るのは無論病人当事者だ。しかし、それ以外に医療や介護施設の職員や介護に従事する家族が国の今回の措置により困難に陥ることになぜ想像が至らないのだろうか。

多くの入所型介護/福祉施設では一般に、入所者の医療機関受診時のために保険証を預かっている。しかし、国の方針によれば多様な重要機能を持つ個人番号カードを施設が預かることになる。

これは個人情報リスクを施設に押し付けることにならないか。介護/福祉施設はそれほど事務的リソースを持っていない。離職率も高く平均賃金も低い。社会の矛盾を押し付けている代表的な業種の一つだ、

 

保険証廃止推進派は「本人がカードを保管すればいい」「本人ができないなら家族がその都度同行すれば良い」などと主張するが、現場を一見すするだけで絵空事だとわかる。自分で管理できる人はすでに自分で所持している。それができない人が別に存在することがなぜ理解できないのか。そもそも家族がその都度同行することが困難だから入所施設があるのだ。介護/福祉事業の基本的なレベルの認識が欠如している。

 

例えばこんなことが起きることになる。

高齢者などに多い指定難病などの県が所得判定する疾病については、県により助成措置がある。県が市町村に所得照会すればよいのだが、わざわざ病人に毎年所得証明と住民票を提出させる仕組みになっている。これは県が住民情報を保有していないことにより発生する問題だ。さらに所得は毎年変わるので1年に1回所得判定が必要になるためだ。

 

仮に東京に住む方の父が諏訪地方の施設に入所しているとしよう。父は自力で手続きはできない。そこで、個人番号カードを預かっている息子がコンビニで両証明を取得し、郵送で手続きすることになる。

 

もし個人番号カードを保険証にしてしまったら何が起きるのか。

上述の通り保険証は施設が預かっている。緊急時に対応できないからである。

カードを施設に預けてしまえば、年に1回の更新の際にこの息子はわざわざ東京から諏訪まで来て、施設に立ち寄って父親の委任状を作成し、市町村役場の窓口で両証明を取得する必要がある。

 

郵送請求する方法もあるが、これも手続きは煩雑である。郵便局で手数料分の定額小為替を買い、役所のHPから申請書をダウンロードして切手を貼った返信用封筒を同封し申請する。自宅にスマホしかなく、PCがない世帯は申請書を郵送してもらわなければならない。

 

 保険証を個人番号カードに統合するのであれば、少なくもこの問題を解決した上でなければならないが、国は一切触れていない。それどころか自らのシンパを使って彼らのような遠隔介護を行っている人々を嘲笑している有様である。

 

 近年、現場や現物を軽視した机上プランニよる国の施策が多い。そしてそれを支持する人が増えつつあるように思う。背景には衰退する日本社会への焦りがあるのだろうが、焦って政府を支持すればするほど国が衰退していくことに気づいてもらいたい。

 

このような単純なレベルの不具合に国も推進派も本当に気づいていないのだろうか。

私はそうは思わない。

彼らは社会の厳しい現実から逃げているのだ。

 

社会の厳しい現実から目を逸らしたい気持ちはわかる。人間なんて誰もそんなものだ。だが、一番厳しい思いをしている人たちを攻撃対象にして逃げようというのは、あまりに非人道的ではないか。

 

なお、余談だが「個人番号に診療記録を紐づけることで健康管理を厳密にできるようになり、医療費の適正化につながる」と主張しているが、これは当たらない。すでに各健保組合が「データヘルス」という事業を10年以上前から実施している。

「診療記録が閲覧できるので、別の病院でも診療を受けやすい」という主張があるが、技術的な知識がないのだろう。カード自体に診療記録が記録されているわけではない。番号はデータベースアクセスのための鍵に過ぎない。そしてデータベースがリアルタイムで更新できると思っているのだろうか?1億人分の診療記録を随時更新できると本当に思っているのだろうか。

 

 

是枝監督「怪物」を観てきた話

参加している岡谷市の読書会でイベント形式での書評会があり、今回はこの映画とノベライズ本がテーマとなった。あまりたくさん映画を見る方ではないが観ざるを得ない機会を作ってもらえるのが「読書会」のとても良いところである。

 

事前に評判を一切見なかった。そのため「怪物だーれだ」というコピーを見て「ホラー映画か?」と勘違いし、心の準備をしていたことを先に告白しておく。是枝監督の映画なのだからそんなはずはないのだが、なんと間抜けな話だ。

 

!!注意!!

以下、ネタバレ含むため、見る予定のある方は読まない方が良いと思う。

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映画の冒頭、主人公は母親を演じる安藤サクラさんだろうと思った。この辺りからすでに罠にハマっていたのだと思う。

夫と死別したシングルマザー。不審な行動をとる子どもを心配しているシーンが続く。この時点で私は「実はこの子どもは怪物なのだろう」と思ってしまった。

 

ところが、私のその思い込みは次々と覆されていくことになる。

 

子どもが怪我をして帰ってくると、母親は「学校で教師に虐待されているのではないか」疑う。母親を主人公だと思っていたせいか、私は「ひどい教師だ」と思い始めた。学校側の方通りの謝罪とそれを主導する田中裕子演じる校長。この辺りでは「いや、学校にもいろいろ都合はあるし、そんな演出はないんじゃないか」などと完全に勘違いをし始めていた。

 

この思い込みは次々と覆っていく。主人公(実は母親の子どもの「麦野くん(黒川想矢)」が主人公であることにこの辺りでやっと気づく。母親視点から担任の先生(永山瑛太)視点に切り替わり、やっと主人公視点になる。この時点で同じ時間軸の出来事が全く違って見えている演出が繰り返されていたことに気付いたからだ。

 

私は理解しやすいストーリーに載せて、物事を解釈しようとしていた私自身の心の動きに愕然とした。ストーリー自体は面白かったのだろうが、途中からそれどころではなくなっていた。途中、性的マイノリティを絶妙に演じていた子役たちの演技を楽しむ心の余裕もなかった。

 

ラストシーンの近い田中優子扮する校長が主人公にトランペットを教えている時になり、私はやっと私自身が半信半疑、疑心暗鬼に陥っていることを自覚した。

 

ラストシーンは子どもたちが光の中に走っていくシーンだった。私は映画を見た直後は子どもたちが亡くなってしまったのだろうと私は考えた。書評会でも同じような意見が出たが監督にはそこまでの意図はなかったとのこと。

 

映画を見てからしばらくして、秘密基地は何のメタファーだったのだろう、と考えるようになった。仮に周囲の思い込みから自分たちを守る殻やシェルターのようなものだと考えると、そこから出ていくことは成長を意味するものなのだろうか。いや、それですら何かの思い込みかもしれない。

 

私自身は「怪物だーれだ」の答えを、わかりやすいストーリーに載せて偏見に囚われ続けた私自身なのではないのか、と感じた。明らかに私は冒頭で「シングルマザー」だからと主人公の母に過度に共感し、その結果として学校の体制に反発しかけ、子どもの不安に動揺していた。

 

人は見えないものを想像する力を持つ。以前、心理学の講義だったと思うが、この能力は動物が持たない人間特有の高度に発達した脳の機能であると学んだ。

見えないものを想像で補完することは本来は重要な機能である。一定のパターンを見抜く力は、それまでに見聞きしたパターンや構造を理解した上で行うからだ。

しかし、この能力には欠陥があり、錯覚や偏見を引き起こすということだ。

 

私は偏見については日頃から気を付けているつもりだったが、映画を観る過程で実はそうでもないことがわかった。もう一度、まっさらな気持ちで自分の持つ偏見に向き合ってみたいと思う。

 

なお、余談だがこの映画は諏訪地方で撮影している。先日、岡谷市で行われた書評会でお話を伺う機会があった。

毎度のことながら当地のフィルムコミッションの貢献により、素晴らしい撮影になったと思う。セットなどには今井建設さんが撮影セット作りに携わっている。秘密基地はセットの電車を作った上で、美術の力で朽ちつつあるようにしたとのことだ。

 

信州大学公開講座 比較憲法 第三回「家族の形を比較する」

 今回のテーマは家族。同性婚の問題を通して現代における家族の意義を考えさせられる内容だった。日本においては先日、同性婚の問題に対して岸田総理は「社会が変わってしまう」と発言して物議を醸した。

 

日本では21世紀に入り3つの地裁判決が出ている。

(1)札幌地裁判決2021年3月

同性婚を認めないことは性的指向に基づく差別

(2)大阪地裁判決2022年6月

憲法14条にも24条にも反しない。婚姻の本質「男女が子を産み育てながら家族として共同生活を送り、次世代に承継していく関係」を伴うものではない

(3)東京地裁判決2022年11月

同性カップルに婚姻制度が設けられないのは問題

24条違憲状態

 

婚姻法制は民法739条に「戸籍法に定めるところにより届け出ることによってその効力を生ずる」と定められている。

その戸籍法で「夫婦が称する氏」の記載が申請要件となっていることから、事実上同性婚が受理されない仕組みになっている。

 

実はこの問題は米国においても社会的に容認されたのは、実は最近になってからである。

 

英米における同性愛への規制

1553年 イギリス「異常性交禁止法」(男女間も含む)

米国植民地にも継承された。

米国 ソドミー

ソドミー行為(非自然的な生殖に結びつかない性交にふける)を取り締まる州法が制定される。

キリスト教的な道徳規範意識が背景にあるものと思われる)

 

1950sの同性愛差別

Aキンゼイは性科学の見地から「男性の10%、女性の2~6%が同性に性的指向を持つ」ことから「同性愛がありふれたものだ」と科学的に主張し「グレーゾーンの人もいる」ことにも言及したが、波紋を呼ぶ。

 

マッカーシズムによる弾圧

赤狩り」と「ラベンダー狩り」

レッドパージ(英語:red scare )と同時にマッカーシーは同性愛者も標的にした。

マッカーシー上院議員は同性愛者は「セキュリティーリスク」であるとし、連邦政府が雇用するには不適切とし、公職から追放を主張。

 

ちょうどこの頃、「ホモファイル運動」と呼ばれる運動が起こる。カリフォルニア州で同性愛者の団体が設立された。この時代は弾圧の時代だったこともあり穏健な運動に終始した。

 

1969年 ストーンウォール イン暴動

NYのゲイバーに警察が踏み込み、店内の200名が取調べ。1名の女性がパトカーに乗せられる際に警官が暴行を働き暴動に発展。1週間続いた。

70年代の積極的権利運動のきっかけとなる。公民権運動や女性の権利運動と結びつき激しい抗議活動となる。

 

1977年 ハーヴェイ・ミルク射殺事件

同性愛者であることを公表していたミルク氏が市議に当選。

教育現場から同性愛者を追放する条例をめぐり対立していたダン・ホワイト市議が辞職後にミルク議員を射殺。

 

1971年 ミネソタ州裁判

同性カップルが婚姻許可証の発行拒否され裁判になる

州の最高裁は以下の理由で訴えを退ける

1)婚姻は異性間の結びつきを一般的に意味する

2)家庭における子どもの出産養育を含む

3)男女の婚姻は創世記に遡る

 

2003年 テキサス州裁判 Lawrence事件

1組の同性カップルソドミー法違反で逮捕される。

ソドミー法が合衆国憲法修正第14条違反であるとし、性的自己決定権に反するとして出訴

合衆国最高裁ソドミー法は同性愛者に過大なスティグマを課すとし、テキサス州ソドミー法は違憲で無効であるとした。このことで同性愛者を犯罪として取り締まる法律は無くなった。

 

判決後、2015年までに36州+ワシントンDCが合法化。

 

2015年 最高裁判決 Obergefell事件

同性婚を認めていないオハイオ州に住む同性カップルが婚姻後、一方が死亡。自分の名を死亡証明書に記載することを求めて提訴。

最高裁

憲法が保障する基本的人権には個人の尊厳や自律に大切な個人的選択が含まれる

婚姻の権利は基本的権利に含まれるため、同性カップルを異性カップルの下位に置くことは重要な権利の保障ができないため意見。

最高裁が婚姻について述べた4点は以下の通り。

①婚姻はそれを通じて他の自由を見出す関係性

②婚姻は他の結びつきとは異なる特別な結びつき

③婚姻は子どもの最善の利益を確保するもの

④婚姻は社会秩序の要

 

本判決の問題点

「婚姻の神聖さを掲げ、同性カップルを排除すべきでない」という理論構成。

婚姻それ自体の社会的価値を強固にする理論であり、選択的に婚姻しない者の権利を新たに排除することにならないか?

 

日本の状況

「社会が変わってしまう」岸田首相発言。

「家族や価値観が変わってしまう」

 

講義内容は以上。

 

以下感想。

岸田首相の「社会が変わってしまう」発言に対しては、数年前にニュージーランド国会でのスピーチでですでに結論が出ていると思う。

 

モーリス・ウィリアムソン議員 賛成討論から

同性婚が認められるとよくないことが起こると心配している方々にお約束する。明日も太陽は昇る。旱魃は起きない。あなたの娘は、相変わらず言うことを聞かない。あなたの住宅ローンは増えない」

同性婚が法制化されても、関係ない人たちにはこれまでの人生が続くだけ。何も変わらない」

「私たちがしようとしていることは、愛し合う二人に婚姻を認めると言うもの。お金もかからない」

 

実際、同性婚カップル(日本では事実婚)が共同で家を買った場合、一方が亡くなったときに相続の問題が発生する。異性カップルであれば配偶者に相続権が発生するが、同性婚の場合は遺言を正式な方法で残さない限り、親戚が法定相続することになる。例え1円も払っていなくても。

このまま放置することの方が余程無理があると私は思う。

国は一刻も早く現実を認め、法制化していただきたい。