今週のお題

小学校の頃。
体育が出来なかった人にとって、運動会の思い出は悲惨な物のことがあると思う。実は文化祭も同じなのだ。クラスでは体育の出来る人がスターであって、勉強しか出来ない人間はおまけのような存在だった。だから、文化祭も体育の出来る人たちが中心だった。体育の出来る人たちにからかわれたり、いたずらをされながら作業をしているクラスメイトを覚えている。自分自身にやられることよりも、彼を見ていることが俺には苦痛だった。

運動会はスターがスターになれるイベントだと思う。彼らの権威を肯定する根拠となる、イベントなんだと思う。
政治学で言うミランダとクレデンタ。大衆へ「クラスを勝利に導く」という英雄的行為は情緒を持って支持を訴えるミランダ。「記録」や「順位」は客観的にその力を示すクレデンタ。(政治学を勉強した時に運動会を例えに、この二つの言葉を覚えたのは俺だけだろうな)

そう思って、小学生時代を送っていた。実際はもっと幼い言葉で、自分の思いを綴っていたけど。

大人になって思い返してみる。
体育が出来ただけの子たちは、思った通りになった。
体育が出来て、かつその他のことも出来た人たちは、成功を収めたり、それなりに社会でまあまあの会社に勤めて何とか生き延びている。

たぶん、我々を馬鹿にしてからかった彼らは、この事を予感していたんだろう。だから、精一杯運動会では英雄になろうとしたのだ。

その事に気づかなかった自分がアホみたいだ。


・・・と、いうようなことを20代の始めの頃は考えていた。いまでは、そんなこと思いもしない。現実はそう言う理屈を越えて、もっと凄まじい物だったし、それを越えていく人の力は、もっとすごいものだったから。